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「は? ガラル?」

素っ頓狂な声がアイルの口から飛び出た。久しぶりに兄から送られてきたメッセージは簡潔に「ガラルへ勤務になった」の一言だけ。慌てて説明を求めれば、しばらくして長文が返ってくる。

アイルの兄は医師を目指していた。彼は人間とポケモン両方の診察ができる免許を取得するために、長い間勉強や実習を重ねていたのだが――ついにその努力が実ったらしい。医師免許が取ったそのままに、ガラル地方の総合病院へ勤めることになったという。そして報告を兼ねて久しぶりにアイルへ連絡が入った。

「また遠いところに……」
 
思わず呟きがもれる。ガラルへ行くなら、余計に兄も自分と同じく実家へ帰ってこられないだろう。つまり、なかなか顔を合わせる機会も減る。基本的にオブリビアは交通の便が悪い。

『おめでとう』と打ちかけて、アイルの指がつい止まる。
兄が夢を叶えたことは素直に喜ばしい。しかし同時に「先を越されてしまった」という気持ちもわきあがる。決して競争をしていたわけではないし、兄に研究のことを話していたこともないのだが、それはそれとして複雑な心境であることは否定できない。

「いやいや、私だって進んでいるし!」
 
デンジさえもそう言ってくれた。セレビィに会う段取りだってすんでいる。だから決して兄に遅れを取っているなんてことはないはずなのだが。
そういえば、とふいに思い出す。シロナはもう論文を書き終えたのだろうか。優秀な彼女のことだ。とっくに終えているかもしれない。なら、ワタルがシロナへ想いを伝える日も近いということになる。そうしたら二人は晴れて恋人同士だ。

「うう、落ち込むなぁ……」
 
兄のことも、そしてワタルが恋を成就させることも、素直に喜べない自分が嫌になる。大きなため息を吐き出して、とりあえずアイルは兄へ贈る祝いの言葉を打ち込んだ。
端末と共に敷きっぱなしの布団の上へ寝転び、相棒のエネコがよくやるように身体をぐうと丸くする。まだ日は高いが、このまま寝てしまおうか。そうしたら自己嫌悪の気持ちも忘れられるかも。いわゆるふて寝というやつだ。

しかし、それを許さぬように端末の呼び出し音が響く。
居留守を使おうとコール音を無視するが、相手はなかなか諦めない。一定のリズムで鳴り続けるそれに負けたのはアイルのほうだった。

「……もしもし」
 
自制する前に暗い声で応えてしまった。また自己嫌悪。

『ああ、やっと繋がった。いま、大丈夫かな?』
「ひえっ」
 
予想だにしなかった声にアイルの喉が鳴る。飛び起きて、今更ながら背筋を伸ばす。ろくに見なかった端末の画面を見れば、そこには先日連絡先を交換したダイゴ≠フ文字が並んでいた。

「た、大変申し訳ありません! 出るのが遅くなりました!」
『気にしていないよ。そんなに待ってもいないしね』
 
笑い声をこぼすダイゴに、もう一度謝罪の言葉を伝えて「それでどうかしましたか?」とアイルは要件を尋ねた。

『ああ、ごめん。実は歯車の解析が終わってね』
「え!」
『今度の日曜、カントーへ行く用事があるから会えないかな? ニビあたりで』
「もちろんです!」

結果を訊いてもいいのだろうか。言葉を詰まらせ、答えを急ぎ待つ彼女へ、優しくダイゴは言う。

『――おめでとう≠ナ伝わるかな?』
 
端末が手から滑り落ちた。


***


約束通り、日曜日の昼過ぎにアイルはニビシティでダイゴと待ち合わせた。わざわざホウエンからカントーへ来るという手間をかけさせたことを詫びれば「科学博物館の特別展示、今日までだったからちょうどよかった」とダイゴは瞳を煌めかせる。科学博物館の特別展示は化石関連のものに違いないと確認もしていないのにアイルはわかってしまった。
 
博物館は午前中にたっぷり見たから、と満足そうな彼に案内されたのはとあるオフィスの会議室。デボンのグループ会社であり、今日は休みだからと借りたそうだ。確かにこれから話す内容は人払いが必要なものになるだろう。全て手配をしてくれたダイゴへ申し訳なく思い、頭を下げる。

「なにからなにまですみません……」
「使えるものは使わないともったいないからね。とりあえず、先にこの子を」
 
ダイゴの持つケースから大事に出されたのはルカリオのモンスターボールだった。赤い器越しにルカリオの様子を見ると大切にしてもらっていた様子が覗える。アイルの元にいるときより毛並みが整えられ、ツヤが出ている。はがねタイプのエキスパートだ。

「預かっていた『時の歯車』も。そして、お待ちかねの調査結果がこれ」
「……ありがとうございます」
 
資料を渡すと「そちらはあとで読んでくれればいいから」とダイゴはリモコンで部屋の明かりを消し、プロジェクターの電源を入れた。持参していたタブレットを接続すれば、白い壁に画面が映る。

「アイルさんはメガシンカ≠ニいう現象を知っている?」
「はい。カロス地方で発見された新しいポケモンの進化方法ですよね?」

一部のポケモンにしか確認されておらず、まだ謎に包まれている進化を越えた進化。それがメガシンカの現象である。トレーナーとポケモンの絆によってもたらされる、新たな可能性。

「プラターヌ博士の論文を読んだことがあります」
「さすが。ボクもそのメガシンカには興味があってね。プラターヌ博士とよくやりとりをしているんだ」
 
言われてみればダイゴの胸元に光る石はキーストーンだ。それに彼のエースであるメタグロスはメガシンカできるポケモンの一種である。あと――単純に『石』なのが彼の興味を刺激しているのだろう。

「今回の話を聞いたときに真っ先に思い浮かんだのが、このメガシンカに使われる『キーストーン』と『メガストーン』だったんだ。力の放出と蓄積――仮説と似通っている点が多い」
 
メガシンカはトレーナーが持つ『キーストーン』とポケモンが持つ『メガストーン』の共鳴が必要となる。『メガストーン』のほうは、それぞれのポケモンに対応したものでなくてはならないが、つまり言い換えればそのチカラに特化しているということになる。
すなわち通常の『メガストーン』はポケモンたちのチカラに、『時の歯車』は時間<Gネルギーに特化しているのではないか?

そこでダイゴはプラターヌに詳細な事情を伏せながらも、メガシンカにおける研究結果や調査データを譲ってもらったという。最新のまだ発表もされていな詳細なものも含め。「どこかにいるポケモンを救うため」という曖昧にも近いダイゴの言葉をプラターヌは信頼し、託してくれたのだ。そこには兄弟弟子であるシロナの口添えもあったことは言うまでも無い。

「その数字を踏まえ、あなたのルカリオが生み出す波導と『時の歯車』の共鳴数値を確認したんだ」
 
ダイゴはタブレットを操作し、スライドを移動させる。そこには二種の共鳴数値のデータが記されていた。

「まったく同じってわけではないけれど、数値は非常に似ている。『時の歯車』は『共鳴することが前提』の物質かもしれない」
「共鳴前提、ですか?」

アイルはしばらく考え込み、顔をあげた。

「『時の歯車』が複数あるのは時間エネルギー≠長期間維持するため?」
 
複数の歯車にエネルギーを充填し、それぞれが共鳴し合っているのなら一つ当たりの消費する量は少なくてすむ。二個目の『歯車』はそれを知らせると共に、空になったからエネルギーを充填するようにアルセウスが託したのだろう。
ようやく点と点が繋がった。興奮で震えるアイルへ「喜ぶにはまだ早い」と言わんばかりに、先ほどよりも低い声をダイゴは出す。

「ただ問題もある」
「問題、ですか?」
「一つあたりの歯車が吸収できるエネルギー量は決して多くないんだ。あなたが見た世界がどのくらの規模かは不明だけれど、ざっと見積もっても倍以上の数は必要になるんじゃないかとボクは考えている」
「これ以外にも、『歯車』が存在しているかもしれないってことですか!?」
「そういうことだね」
 
ダイゴは残念そうに肩をすくめた。こればかりはどんなに頭を悩ませたところで、わからないことだからだ。アルセウスが全ての『時の歯車』を用意するならまだしも、ここには二つしか無い。すなわち空になっているのは、この二つだけという可能性が非常に高い。
しかしアイルの胸に宿ったのは光が差込むような想いだった。暗い闇から抜け出し、夜明けを迎えたような鮮やかで優しい気持ちが広がっている。

ああ、そうか。とアイルは噛みしめる。自分のすべきことはこれだったのだと
全てを解き明かす必要はなかったのだ。この『歯車』の仕組みを伝えること。それがアルセウスが自身へ託したことなのだと気づいた。

最終的にエネルギーを充填し、世界を救うのはあの世界にいる――夢の中で言葉を交したジュプトルとその相棒なのだろう。
そしてジュプトルたちなら他の歯車も見つけ、世界を救ってくれる。そんな自信が彼女にはあった。

やるべきことが明確になれば、自然と背筋が伸びる。アイルの瞳に宿る輝きを見つけ、ダイゴはこっそりと笑みをこぼす。なるほど彼≠ェ好きになるわけだ、と。

「……やっぱりセレビィに時間エネルギーをわけてもらうのがいいかも」
 
さすがに空っぽのまま返すのは忍びない。例え焼け石に水だとしても、時間エネルギーを満タンにした二つの『歯
車』があればあの世界の時間≠ヘ延命できるはずだ。
アイルの言葉に目を丸くするダイゴが「セレビィに会えるのかい?」と尋ねると、彼女は胸を張って頷く。

「はい! セレビィにチカラを借りることは、なんとかできそうです」
「……アルセウスは?」
 
途端に先ほどまで饒舌だったアイルは苦い表情を浮かべる。

「そちらも大丈夫だと思います」
「相手はそうぞうポケモン≠ネのに?」
 
ダイゴの懸念ももっともだ。だからこそ言わなければならない。

「私、アルセウスのパシリらしいので……」
 
しかも、お墨付きまでぱっちりもらっているレベルの。

「それは、なんというか、頼もしい……のかな?」
 
そう思ってもらいたい。でないと居たたまれないからだ。せめてパシリじゃなくてもっと、いい肩書きがほしかったとアイルは重いため息を飲み込んだ。


会議室を出る頃には陽はだいぶ傾き、世界は紅く染まっている。その眩しさに目を細めながらアイルはダイゴへ改めて頭を下げた。

「本当にありがとうございました。生じた費用はあとでご請求ください」
「ああ、そのことなんだけどいらないよ」
 
さらりと言った彼に「それはだめです!」と勢いよく首を振る。

「そんなわけにはいきません! こんなしっかりと解析していただいているのに」
「情報はデボンで独占させてもらうからね。イーブンだよ」
 
それが『時の歯車』の情報を守ってくれるための嘘であることをアイルは知っている。だからこそ、そういうわけにはいかないと食い下がった。
その様子を受けて、ダイゴは「まいったなぁ」と頬をかく。

「あなたって意外と頑固だ」
「よく言われます」
「なるほど、ワタルの評だね? うーん、じゃあ、アルセウスと会う日にボクも呼んでよ」
 
どうせあの二人も来るんだろ? と名を出さずとも特定の人物を指しながら目を細める。

「ボクだけ除け者なんてずるいじゃないか」
「でもそれだけじゃ!」

まだ足りないと叫ぶ彼女のくちびるへダイゴの指先が触れた。物理的に黙らせたのだ。

「こういうときは甘えておくものだよ、アイルさん。それにあなたには各地方へ研究結果を納めてもらう依頼もある。あと、ミナモでのこと、ボクも感謝しているからお相子ということで」
 
ね? と有無を言わさぬ圧力をかけるダイゴにアイルは渋々と頷いた。それを確認して、彼の指がゆっくりと離れる。
これ以上は話を続けられないと判断したアイルは、別の話題を口にすることにした。

「もうホウエンに戻るんですか?」
「いや、せっかくだから、おつきみ山に行こうかなって。あとワタルにも挨拶していくよ」
 
あなたと二人で会っていたのがわかったら怒られちゃうかな、とダイゴは愉しげに頬を緩め、肩を震わせる。渋い顔のワタルを想像したからだ。
楽しげなダイゴの表情を見て、アイルはぽつりと言った。

「前に、ワタルさんが私の前では素が出せると言っていましたよね」
「うん。そうだね」
「あれ、やっぱり気のせいですよ」
 
目を伏せ、静かに続ける。

「ワタルさん、好きな人いるみたいなんです。本当に大切に想っているみたいで。私なんかよりその人と一緒にいるほうが、ずっと心を許していられるだろうから」
 
くちびるを固く結ぶアイルに、嫌な予感がダイゴの背筋を駆けた。

「…………まさかその相手をシロナさんだと思っているなんてことはないよね?」
「え!? シロナさんじゃないんですか!?」
 
ああ、なるほど。そういう。ダイゴは思わず天を仰ぎたくなった。そんな彼の胸中に気づかず、アイルは詰め寄る。

「私に恋愛相談してきたから、てっきりそうだと……。ダイゴさんはどなたかご存知なんですか!?」
「ちょ、ちょっと待って、ストップ」

大袈裟に咳払いをし、ダイゴは数回深呼吸を繰り返す。ようやく落ち着いた瞬間から、口から弾むような声がこぼれた。

「ふふっ、そう、きたか!」
 
盛大な勘違いにダイゴはひたすら笑い声を噛み殺す。誤解されているワタルに対して止まらなかった。
あのワタルがこんなところで詰めを誤っているなんて。まったく愉快な話である。それこそシロナに教えないといけない。ダイゴは浮かんだ涙を拭いながら、努めて冷静な声で言った。

「残念だけど、予想は大外れ。ワタルさんの好きな人は別にいるよ」
 
あの二人の関係は……そうだな、あなたとデンジくんとの関係みたいなものかな、と続ける。

「アイルさんなら機会がくれば自然と知ることになるよ。そうだな――そこれそ、この件が一段落したあたりに」
「そうなんですか……?」
「うん。約束するよ。きっとすぐに行動に移すに違いないからね」
 
そんなに想う人がワタルにいるのか、とアイルは息をのむ。ぐらりと何かが揺れるような気さえした。胸が締めつけられ、息ができない。

「……応援しないと、ですね」
 
なんとか絞りだした声。彼が想い人と結ばれ、幸せになることはよいことなのに。やっぱりはそれを手放しで歓迎することが、アイルにはどうしても難しいことに思えて仕方なかった。
 
ALICE+