29



真夜中というのは、総じて静かなものである。心細ささえ、感じるほどに。

ホーホーとヨルノズクだけが起きているような時間。アイルはアルフの遺跡へ続く道を歩いていた。傍らにはエネコが小さな足を動かしてついてきている。丸いしっぽが視界の端にちらちらと入り込み、少しだけ彼女の心を和ませた。
 
ダイゴからもらった解析結果と今までの研究を合わせた資料、もとい彼女の集大成が完成したのは五日前の朝のこと。ろくに睡眠もとっていなかったアイルは倒れるように眠り、その後、ようやくワタルをはじめとした関係者に連絡を取った。
アイルとしては一刻も早くセレビィと会いたい気持ちがあったが、多忙を極めるチャンピオンたち全員の都合がなかなかに合うのは難しかった。

加えてシロナが「少し時間空けてから本文を見直しなさい」と助言をしたこともあり(実際、手直しが必要になった)、今夜――あのときアルセウスと再会した時間帯に――アルフの遺跡へ集合となった。
ダイゴとシロナは直接現地へ、ヒビキはワタルが迎えに行ってくれるという。だからアイルの傍にはエネコしかいない。

「実感、わかないね」
 
もれた本音。それに相棒は同意するように鳴いた。今夜、自分の今までに一つ区切りがつくことは事実だ。しかし、それがなんだか現実から離れているように感じてしまう。ふわふわと足元が揺れているような。そうでないような。
同時にまだゴールではないこともわかっている。アルセウスに歯車を渡してからが、ある意味本番といえるだろう。アイルにとっての最終地点はあの世界に光がもたらせることだ。

ただその結果は自分が知ることができないのが、もどかしい。この研究結果が彼らの希望になるか否かを、アイルに確認する術はないのだ。そのことがひどく、こわい。
くちびるを噛みしめる。夜の静けさが、今のアイルにとっては底なしの闇となり、彼女を包んでいた。


すでにダイゴとシロナは遺跡についていた。最後にワタルとヒビキがやってきて、これで今日のメンバーは全員。誰一人欠けることなく揃った。遅くなって申し訳ないと謝るヒビキへ「むしろこんな時間にごめんね。すっかり寝ている時間だよね」とアイルは同じように頭を下げた。
恐縮しあう二人に割って入るようにシロナが尋ねる。

「あなたがセレビィを?」
 
真っ直ぐにシンオウチャンピオンを見つめたヒビキは、バッグの中へ手を入れた。

「はい。このボールがそうです」
 
取り出されたモンスターボールを大人たちが覗き込む。うっすらと赤い壁の向こうに、「まぼろしのポケモン」の姿を確認した。

「いつの間にかボールに入っていて。逃がそうとも考えたんですが……」
「おや$ァ度ね」
 
ヒビキは肯定する。
おや≠ェ決まっているポケモンは野生としてカウントされない。元は一匹のポケモンに対し、複数人のトレーナーが重複しないための制度だが、ヒビキはこれをあえて利用した。

彼がセレビィのおや≠ナある限り、他のトレーナーはこのセレビィをゲットできない。つまり、セレビィの持つ不思議なチカラを悪質に利用されなくてすむということだ。
ヒビキ自身もセレビィを手持ちとしてカウントすることはせず、ほとんど野放しにしているという。こうしてチカラを借りることはあっても、セレビィの意思を優先しているとのことだ。

「……本当、ポケモンに愛される子はいくらでもいるものだね」
「ああ。未来は明るいな」
 
ダイゴとワタルの会話を耳にしながらアイルはじっとボール越しにセレビィを見つめる。丸い瞳が彼女へ向けられる。
結んでいたくちびるをようやくほどき「時間です。石室へ向かいましょう」と声を出した。

以前も訪れた石室への道順は覚えていた。狭い部屋に大人四人と子供一人が入るとさすがに狭い。身体が触れ合って窮屈、というわけではないが、せめてもの救いだろう。
アイルはバッグからスチールケースを取り出し、開ける。中には『時の歯車』と手帳、それとボイスレコーダーが入っていた。
あちらの世界の環境がわからないため、とりあえず丈夫なものを揃えた。特にスチールケースはコガネデパートで「カビゴンが乗っても大丈夫!」という売り文句のポップが貼られていたので、よっぽどのことがない限り壊れはしないはずだ。

研究資料については、全て手書きで手帳に書き写してある。アイルは、おそらくあの世界に「データ」を読み込む機器はないと考えていた。文字文化が異なっていた場合もカバーできるよう、ボイスレコーダーでそれを読み上げた音声も念のため準備した。アイルとポケモンたちがそれぞれ吹き込んでいるから、どれかは聞き取れる――と信じたい。

「ボイスレコーダーはでんきポケモンで充電できるものにしました。個人的にはこれがフォローできる精一杯です」
 
大きな出費が建て重なり、懐はだいぶ寒くなった。だが、こういうときのためにずっと貯金し、手をつけてこなかったのだ。使わないでどうする! という気持ちを全て一括払いの会計へ叩きつけた。彼女なりのプライドである。

「アイルさんすごいですね!」
「もっとうまくできたらよかったんだけどね」

ヒビキは輝く眼差しをアイルに向けながら、手にしていたボールをカチリと開ける。途端に、光の帯とともにそのポケモンが姿を現わした。くるりくるりと様子を窺うように空を舞い――アイルの目の前へ降りてくる。

「セレビィ……」
 
薄緑色の丸いフォルム。大きい瞳がこちらを覗き込んでいる。澄んだ青い色のそこへ、自身が映っていた。
写真にイラスト、文献、口伝……それらでしか見たことのない、伝えられていないポケモンが目の前にいる。言い知れぬ感情が広がっていく。にじみにそうになる視界から逃げるように、アイルは無理矢理笑みを浮かべた。

「会いたかったの、あなたに」

セレビィはじっとアイルを見つめている。

「チカラを貸してください。あの世界を救うために」
 
『時の歯車』を二つ、セレビィへ差し出す。理由はわからないが、手は小刻みに震えていた。止まれ、と自身を叱咤する。
そんなアイルの震える指へセレビィは優しくふれた。冷たいような、温かいような、やわらかな温度を感じ、震えが止まる。

「セレビィ、あなた……」

にこり、とセレビィは微笑んだ。そして次は固い石へ。『意思の歯車』にふれた瞬間、セレビィの身体が光に包まれる。金色の粒子が舞い上がった。その光はあたたかい。眩しいけれど、決して目を焼くようなものではなかった。そこにいる誰もが思わず見入る、美しい光景だった。
 
それがどのくらいの長さだったかはわからない。短くも、長くも感じるほどの時間が流れ、ようやく光が落ち着く。
セレビィの小さな鳴き声に促され、アイルは視線を落とす。

「……ありがとうっ!」
 
二つの歯車は、かつてのような灯りが宿っている。エメラルドグリーンに輝くそれに、アイルはよろめきそうになった。時間エネルギーの充填は間違っていなかったのだ。まずは一歩が達成できたことが証明された。
しかし、まだたったの一歩。現に足下のエネコが「まだ泣くんじゃない」とばかりに尻尾でアイルのすねを叩いてくる。その痛みで身が引き締まった。わかっているよ、と相棒へ頷いて声をはりあげた。
神様を喚ぶために。

「アルセウス! 約束通り、答えを見つけてきたよ!」
 
石室に声が反響する。もう一度同じ言葉を叫んだ。

「アルセウス!」
 
しかし反応はない。またなのか、と先ほどとは違った意味で滲みそうになる視界。
――でも諦めたくない。ここまで揃ったのだ。『歯車』の謎を解いた。セレビィがいる。協力してくれた人が見守っている。諦めるぐらいなら、ここまで来ていない。

もう一度アルセウスの名を呼ぼうとして、顔を上げた。その視界に動く何かがある。目を凝らしてよく見ると、それはアンノーンだった。
思わずワタルへ振り返る。彼もまた頷いていた。あの時と同じ、アンノーンがいるということは……。

その様子をじっと見ていたセレビィは大きく空中を旋回しはじめる。動きは不規則にも、規則性があるようにも感じられる不思議な動きをしていた。今まで取ったことのない動きにおや≠ナあるヒビキは声をもらす。セレビィは動きを止めることなく、鈴のような音が声を震わせた。
空気の波紋が部屋中に満ちていく。目には見えないそれを肌で感じた。

瞬間、なにかが生まれた。部屋の中央部分の空間が歪み、徐々に大きくなっていく。「まさか」とシロナの呟きが溶け、消える。
大きな神鳴りのような、もしくはまったく違うような空気の震えを伴って創造の神と称されるポケモンがそこに姿を現わした。シロナは長年の研究対象を目の前にして、興奮が抑えきれないようだ。「アルセウス……!」と目を輝かせている。

一方でアイルの心は凪いでいた。今まであった不安感も期待感も、己を奮い立たせていた感情は一切ない。
まずは一歩、その神様へアイルは近づく。すぐさま、その間にエネコが身を挟んだ。相棒を心配し、不用意に近づくなと言っているのだ。ありがとう、とアイルはエネコの頭を撫でる。いつだってこの相棒は頼りになって、自分を守ってくれている。本当に大切な存在。
息を吸って、吐く。意識してそれを繰り返し、改めてアルセウスを見上げた。

「アルセウス。お待たせ」
 
もう一度、息を吸った。

「答えを見つけてきたよ」
 
スチールケースと『時の歯車』を差し出す。

「今、セレビィに時間エネルギーを戻してもらったの。この歯車があの世界にある全部じゃないのはわかっているよ。でも、私はこれがきっかけになるって信じている」
 
浮かんだのはあのジュプトルだった。あの子なら、この結果をプラスに変えてくれるだろう。何かが一つ、少しでも良い方向へ動くのなら。
それだけで自分は「やってきてよかった」と報われる。

「受け取って。これが私の全てだよ。少しでもあの世界は救われますようにって、その一心でやってきたの」
 
アルセウスは静かにその言葉を聞いて、大きな身体をアイルへ近づけた。頭部が指先へふれる。セレビィとは違ったぬくもりだ。温かいけれど、どこか冷たい。近くにいるのに遠く感じる。
そしてアルセウスはケースにもふれた。一瞬にしてケースは光の粒子となり、空間に消えていく。ああ、受け取ってくれたのか、とアイルは言葉も無く理解した。

「私の研究は役に立ちそう?」
 
つい尋ねてしまう。アルセウスはじっとアイルの瞳を見つめた。

――ソノ答エヲ知ルノハ、私デハナイ――
 
直接心に語りかけられるのは慣れてしまった。

「そう……」

――アノ世界ニ生キル者タチガ、答エヲ示スダロウ――

「なら、大丈夫。きっと役に立ててくれるはずだもの」

微笑むアイルへアルセウスは再び語る。
彼女を頼ったのは考えていた通りだった。荒廃した世界では満足な研究ができず、世界を救うための第一歩が踏み出せなかったという。だから設備の整った――なにより人とポケモンが共に生きるこの世界を頼ったのだという。しかし、アルセウスといえど世界そのものに介入することは難しい。

あの場にいたアイルに全てを託すしかなかった。だが、アルセウスは信じていたという。アイルならば全てをやり遂げることができると。
それを聞いて買いかぶりすぎたとアイルは首を振った。私じゃない誰かでもポケモンを助けたいと思えば、同じ行動を取っただろう、と。

――ソノヨウナ事ハ、ナイ――

「え?」

アルセウスは言う。お前だからできたのだ、と。他の誰でもない『アイル』という人間だから、ここまで成し遂げられたのだと。
あの場にいたのが、託したのが、アイルでよかったと目の前の神様はアイル自身へ語った。そして「礼をする」とも続けた。
しかしアイルは首を振り、断る。

「私だけでたどり着いた答えじゃないから……」

一人のチカラでやり遂げられたのならよかったのだけれど、実際はそうではない。エネコを始め、仲間のポケモンたちがいて、手を差し伸べてくれた人たちのおかげだ。
あの日「頼ってくれ」と言ってくれたワタルがいたからこそ、こうしてアルセウスと向き合えている。今だって自分を見守りながら、何かあったときは飛び出せるようにと待機してくれている。その心強さに自分はいつだって助けられてきたのだ。

「だから、お礼なんて受け取れないよ」

――ダガ、私ハ、礼ヲシタイ――
 
そのむすっとしたような声にきょとんとアイルは目を丸くする。今まで会話をしてきた中で、一番温度を感じた声だったからだ。そして、同じく聞こえていたであろうエネコと思わず顔を見合わせ、苦く笑いをこぼす。
まったく、いつだってこの神様は身勝手だ。こっちの話なんて聞きやしない。


***


とても長い夜は終わりを告げる。
全てを終えた石室から出たダイゴは大きく身体を伸ばした。空はうっすらと明るんでおり、おや? と彼は首を傾げた。

「そんなに時間、経っていたかな?」
「アルセウスが現れたんですもの。時間の歪みが生まれていてもおかしくないわ」
 
シロナの返答に納得したダイゴは「なるほど」と頷いた。たしかにあれほどの存在と関わったのだ。外と中とでは時間の流れが変わっていてもおかしくない。
暗い夜から変わっていく空に目を細め、シロナは呟く。

「あっという間の出来事だったわね」
「てっきりあなたも、アルセウスと話をするのかと思っていたんだけれど」
「したかった、という気持ちを否定はしないわ。でもあれはアイルの時間だったから」
 
シンオウの女王は優雅に、美しく微笑んだ。その瞳に挑戦的な光を宿しながら。

「あたしはあたしの方法で神話を解くの。そしてまたいつかアルセウスと出会うつもり」
「さすが、シロナさんだ」
「ふふ、ありがとう」
 
シロナはなめらかな金糸を輝かせ、果ての先へと想いを馳せる。
そんな彼女らの後方ではヒビキがセレビィを労いの言葉とともにボールへ戻し、ワタルがアイルの手を取ってようやく石室を出たところだった。

「足下、気をつけて」
「はい。ありがとうございま、すっ!?」

力の抜けた足が縺れ、転びそうになる。言ったそばから失態を犯す、彼女の身体をワタルは難なく支えた。そして苦い表情で一言。

「ヒビキくんを送っていこうかと思っていたが、先にアイルくんを宿に届けたほうがよさそうだな」
「だ、大丈夫です! これぐらいすぐに落ち着きますから」
「きみの大丈夫は当てにならないからな」
「そ、そんなぁ」
「前科を作ったような行動をしたのがいけない。――っと、その前に。アイルくん見てごらん」
 
その声につられ、アイルは視線を先へ向ける。空はすっかり朝焼け色に染まっていた。あたたかで、やさしい光が差込んでいる。

「朝陽だ」
「――っ!」
 
まばゆい朝陽を目にした瞬間。アイルの感情が一気にあふれ出した。それは涙となって、言葉となって、こぼれ落ちる。

「わ、私、うまく、できたのかな……。ちゃんと、やれた、のかな……」
 
乱れる呼吸。震える身体。心配そうに鳴くエネコを気にかけることもできない。不安でどうしようもなかった。

「や、やっぱり不安で、でも確かめようもなくて。なにも力になれていなかったら、どうしようって! あのジュプトルたちなら大丈夫なんです。そう確かに思うんです! でもなにもできていなかったら? あの世界を、ポケモンたちを助けたいのに、助けられていなかったらどうしよう……」
 
アルセウスから直接答えを得られなかったのは、予想以上に効いていたらしい。あの世界の彼らなら大丈夫、信頼している。でもそう思いたいだけだったら? 個人的に満足していて、独りよがりな結果になっていたら?
あの世界の光景を見たのは自分がだった。だからやるしかないと思った。同時にそれはアイルの全てが結果に直結するということに他ならない。
差し伸べた手がまた間に合わなかったとしたら。

「私、こわい……!」

いままで閉じ込めていた感情だった。怖かったのだ。なにもかも。答えのない迷路に迷い込んで、答えの見つからない問いと延々と向き合って。その中でようやく見つけた答えは果たしてあっているかわからなくて。それを確かめる術もない。

そう、怖かったのだ。自分はずっと。怖くて、たまらなかったのだ。

たった一言、漏れ出た本音を聞いて、衝動的にワタルはアイルの身体を抱きしめた。腕の中に閉じ込めて力をこめる。彼にとって小さく、細い身体を世界のどこへも逃がすものか、とばかりに。痛いぐらいの抱擁にアイルは息をのんだ。彼女の耳元でワタルは囁く。

「おれが保証する。必ず、うまくいった」
「ワタルさん……」
「きみの努力は報われている。でないとおれが許さない」
「……だれを?」
「アルセウスだ。アイルくんを泣かせるなら、あいつにだっておれは勝ってみせるさ」
 
それとも、おれの言葉は信じられない? と優しく尋ねる彼にアイルは弱々しく首を振った。

「そんなこと、一度もありません」
「ならおれを信じて。アイルくんはやりとげた。きみは、誰かを確かに救ったんだ」
「……はい」
 
恐怖はようやく晴れたようだ。はにかんだアイルの頬をワタルの指が撫でる。浮かんでいた涙をそっと拭った。密着している身体をさらに抱き寄せ、ワタルは言う。

「ほら、朝陽が昇っていく。すごく綺麗だ。――アイルくんが救った朝陽もきっと」
 
綺麗だよ、とワタルは微笑んだ。声に、表情に、瞳に愛を乗せて。
その笑みにアイルは途方もなく心を奪われた。何度も見ている彼の表情なのに、どうしてだろうか。鼓動の音だけが耳に響いて仕方ない。ずっとワタルのことを見ていたくて、この瞬間がずっと続けばいい。そんなことさえも考えていた。

「アイルくん?」
 
じっと自分の顔を見ていたことを不思議に思ったのだろう。ワタルに名を呼ばれたことで、アイルは慌てて視線を朝陽へ移す。
空は淡い紅色に染まり、橙色へのグラデーションが美しい。夜明けの色はいつだって優しく、世界に訪れる。まばゆく輝く太陽がアイルを照らした。

「……ワタルさん」
「なんだい?」
「朝陽ってこんなに綺麗だったんですね」
「ああ。おれも、そう思った」
 
アイルはおずおずと彼の背中へ、腕を回した。抱きしめられている腕の力が再び強くなる。耳を澄ませば、鼓動の音が聞こえてくるような気がした。それが自分のものか、ワタルのものかはわからないけれど。
朝の光が静かに二人を包む。世界が今日も、ゆっくりと目を覚ました。
 
ALICE+