30


「うん。そう、終わったの。デンジもありがとうね、いろいろと」

遠くから響く汽笛と、スピーカー先の友人の声を聞きながらアイルは答えた。クチバの港の待合室は様々な人が、乗船する船を待っている。彼女もその一人。チケットを取った船が来るのはまだ先で、電光掲示板にもその兆しはない。
そんな空いた時間を利用してアイルはデンジへ連絡を取っていた。いろいろなことが終わったことと、今までの感謝を込めて。
 
 
アルセウスへ『時の歯車』を託し、夜明けを迎えたアイルはワタルにヒワダの宿へと送り届けてもらった。ワタルの「しっかりと眠って、休むんだよ」の言葉通り、彼女は丸一日ほど眠り、翌日の朝に目を覚ました。
目覚ましのアラームにも気づかず、自然と目を覚ましたアイルは「なにか夢を見たような」と寝起きにも関わらず首を傾げた。しかし、必要以上に睡眠を取ったあとでは上手く思考も働かない。結局、夢の内容を思い出すことは最後までできなかった。その代わりと言ってはなんだが、胸には清々しい気持ちがいっぱいに広がっている。だから思うのだ。きっと悪い夢では無かった、と。
 
改めてワタルたちへお礼のメッセージを送り、身の回りを整え、ようやく一息つくころにアイルはたと気づく。これから自分はなにをしようか。
「終わり」が来ることを望んでいたはずなのに、いざ目の前に突きつけられるとわからなくなってしまう。目を背け続けていた問題に、ついに向き合わなければいけない時が来た。

しかし、いくら考えてもその「次」が思い浮かばなかった。いわゆる燃え尽き症候群――とは違う気がするが、焦りばかりが生み出されていく。元来、こうしてじっとしていることが性に合わないせいもあるが。
遠回しにシロナへ相談すると、いつもよりも優しくやわらかな声で「ゆっくりしたら? 頑張ってきたのだもの。身も心も休めなさいな」とアドバイスが返ってきた。
 
そのとおりだ、と頷く自分の裏側で、立ち止まることへ怯えを感じる自分も確かにいて。アイルは己自身のことがよくわからなくなってしまった。なにより、立ち止まっている間は彼のそばにいてはいけない気がしてしまうのだ。あの人はそんなこと、気にしないだろうけれど。
 
なので、とりあえず実家に帰ろうとアイルは考えた。しばらく顔を見せていない、という理由を見つけたし。ついでにガラル地方にも足を伸ばそう。兄へちゃんとお祝いを伝えたい。
そうと決まれば行動は早かった。アイルはすぐさま船のチケットの検索をかけた。しかし、行き先はオブリビアでもガラルでもなく、カロス地方である。まずはプラターヌ博士へお礼を伝えに行くために。『時の歯車』の解析にプラターヌの研究結果を使わせてもらったことに対し、きちんと礼と説明をしたいと考えていたのだ。ついでに、カロスリーグに納める資料もプラターヌへ渡すつもりである。他の地方へはセキエイリーグを通してすでに納品済みなこともあり、彼に会う理由はいくつもあった。

準備が整った頃――つまり今朝、アイルはヒワダの宿を引き払い、何泊もした部屋に別れを告げる。愛着も沸いており、その名残惜しさはひとしお。宿の女将も出ていくアイルを見て、涙ぐんでいた。
 

電話口の向こう、デンジが釘を刺す。それに対し「失礼な!」とアイルは声を荒げた。

「さすがにアポ無しで行かないから! プラターヌ博士へはシロナさんとダイゴさんが繋いでくれたの!」
 
こほん、と咳払いでいったん場を仕切り直し「落ち着いたらナギサに行くよ」と彼女は言葉を続ける。

「うん。オーバくんにも会いたいし。――ありがとうね、いろいろと。デンジにも迷惑かけたし」
 
かけられた覚えしかないしな、と同意の言葉が返ってくる。デンジの気遣いにアイルは笑い声をこぼし「じゃあね」と画面をタップして通話を終了させた。
壁の電子掲示板を見れば、ようやく予定の船の名前が表示される。まだ船が着くにはだいぶ時間がかかるようだ。もうちょっとデンジに付き合ってもらえばよかったかな、と考える。手持ち無沙汰を解消するように、足元で眠るエネコの頭を撫でた。
 
こうして船に乗るのはワタルとホウエンへ行った以来になる。あの時のようないい部屋のチケットでは無く、いつもの安旅御用達の雑魚寝部屋だが。
あの船旅は楽しかった。ワタルとたくさんおしゃべりをして、でもふいに訪れる無言の時間も悪くなくて。――彼の恋を聞いた。

「なんだかワタルさんと乗ったのが、遠い昔に思えちゃうな……」
「おれもだよ」
 
独り言に返ってくる言葉があるとは思いもしなかった。聞こえてきたそれに飛び跳ねるがごとく隣を見れば、優しい表情を浮かべるワタルがそこにいた。
彼は今まさにそこに座ったのだろう。改めて居住まいを正し、アイルの顔をのぞきこんできた。

「デンジくんとの通話は終わった?」
「お、終わりました」
 
その距離の近さにアイルの頬に熱がこもる。本当は身体を反らしたいが、足元にエネコがいるためそこまで大きく動けない。

「いつからそこにいたんですか? 気づかなかった」
「結構前にここへ着いてね。でもきみは忙しそうだったから、様子を見ていたんだ」
 
さすがに通話中に声をかけられないよ、とワタルは肩をすくめる。そしてアイルの持つチケットに視線を落とし、その文字を確認する。

「カロスに行くのか」
「はい。プラターヌ博士のところへ。そのあとはガラルに行って、オブリビアへ帰省予定です」
 
とはいえ、あくまでこれは予定≠ナある。『予定は未定』なんて言葉があるように、もしかしたらガラリと行き先が変わるかもしれない。これからどうするのかはアイル自身にもわかっていないのだから。
あの日以来顔を合わせることもなければ、声さえ聞くこともなかった。改めてワタル≠ニいう人を感じると、途端に己を急かす気持ちがわきあがる。次の一歩がなかなか踏み出せないというのに。いや、正しくはどこへ踏み出していいのかわからないのだ。

それをきっとこの人はとっくにお見通しなのだろう。ワタルの前でなにかを隠すことは難しい。よっぽどでない限り、すぐに見抜かれてしまうだろう。

「……レンジャー復帰するのもなんだか違う気がして。とりあえず、兄と両親の顔見てから、これからのことは考えようかな、と」
 
取り繕ように笑う彼女へワタルは静かに尋ねた。

「ここへ戻ることはしないのか?」
「え?」
 
ここ、というのはカントーやジョウトのことだろうか。どちらかに腰を落ち着けるという選択肢について、ワタルは言っている。そうアイルはそう受け取った。でもそれは違ったようだ。

「おれのところには、もう帰ってこない?」
 
どういう意味なのだろう。それは。
なんと返したらいいかはわからない。声が出てこなかった。自分を見つめる彼の瞳に灯る色がひどくやさしい。向けられるたびに胸がきゅうと締め付けられてしまう。心臓がやけに騒がしくなった。周囲の音が遠くなる。まるで、自分とワタルしかこの世界にはいないようだった。
絞り出した声は思いの外震えてはいなかった。たどたどしくはあったが。

「えっと、その、本当に未定で。わからなくて……」
 
言葉がまとまらない。都合よく解釈をしそうになる。彼のそばにいても許される、なんてことを。
口ごもるアイルにワタルは言う。

「おれに予約をさせてくれないか」
「よやく」
「そう、予約。まだきみの未来が何者にも埋まっていないのなら、おれにくれないか。もちろん、ご家族に会いに行ったあとでいい。それこそデンジくんのあとでも。きみがやりたいことを見つけても、見つけなくても、どちらでも構わない。ただ必ず、おれに会いに来てほしい」
 
アイルは自然と頷いていた。「ワタルさんが会いたいって言っているんだから、また会いにこなくちゃ」そんな理由で己を納得させる。言い訳みたいだ、と自覚しながら。
ワタルはアイルが了承したことを確認すると、自身の小指でアイルの小指を絡め取る。そのまま視線の高さまで、それを持ち上げ、わざとらしく揺らした。

「指切りしようか。嘘をついたら……そうだな、嫌というほど追いかけるよ。どこにいても見つけ出してやるからな」
 
指切りだなんて。子供らしい仕草のせいで、アイルの口元がつい緩む。

「ふふっ、ワタルさんが言うと洒落になりませんよ」
「だって本気だからね」
 
指切った、の言葉と共に、二人の小指はゆっくりと離れていった。


***


カロス地方、ミアレシティ。プリズムタワーがそびえ立つカロスの中心地。そのサウスサイドにプラターヌのポケモン研究所はある。
応接室に案内されたアイルはじっくりと資料を読みこむプラターヌを前にして、若干の気まずさを感じていた。こんなこと前もあったな、と考えながら、出されたコーヒーで気分をごまかす。プラターヌがようやく最後のページを読み終えるころ、カップの中はすっかり空になっていた。

「なるほど。ダイゴくんからメガストーンのことを尋ねられたのはこういう背景があったのか」
「はい。詳しくお話しできず申し訳ありませんでした」
「いやいや。こうして相互理解が捗るように、ボクたちは研究をしているのだからね。お役に立ててなによりさ」
 
微笑を浮かべた彼は「これは責任を持って、リーグへ納めるようにするよ」と答えた。それに頭を下げて感謝を示す。

「ところでアイルくんはこれからもポケモンの研究を?」
 
改めて深く腰掛けたプラターヌはアイルに問うた。その表情は真剣そのもの。先程までのやわらかな空気が一変する。
アイルは視線を彷徨わせたのち、素直にまだなにも決めていないと首を振る。
そもそも研究をしたくてレンジャーを辞めたのではない。『時の歯車』の謎、ひいてはその先にあるあの世界を救うため。ただそれだけのために今までは研究していた。結局、道中も何も浮かばなかったこともあり、プラターヌへは「まだ考え中」としか答えられない。

「そうか……」
 
含みのある声を出して、プラターヌは再び資料を捲る。そして、途中のページをじっと眺め、静かに言った。

「研究者に――博士の資格を取ったらどうだろう?」
「え……?」
 
放たれた言葉の意味が飲み込めず、目を丸くするアイルへプラターヌはさらに続ける。

「もう学会へ登録はしているんだろう?」
「一応は」
「なら、話は簡単だ。博士号を取るといいよ」
「え、ええ? なんでそんな?」
「単純に、キミはいい博士になりそうだと直感したんだ。それにポケモンエネルギーの分野における研究者はまだまだ少なくてね」
 
ポケモンはわからないことだらけの生き物だ。その神秘を解明するには、多方面からのアプローチが必要不可欠。特にポケモンが使う「技」には、さまざまな角度から研究がなされている。

「その端っこをわずかでもかじったキミなら、きっと実のある研究ができると思うんだ。アイルくんならボクは喜んで推薦するよ」
「で、でも、私は研究者になるためだって、ちゃんとした段階を踏んでいません。知識だって、全然足りなくて……」
 
アイルの言葉にプラターヌは隠すことなく同意する。確かに彼女の経歴を振り返れば知識も経験も浅く、足りない。それは揺るぎない事実だ。しかしだからといって、相応しくないとは思わない。それはアイルがすでに研究を一つ、やり遂げているからに他ならなかった。それが何よりもの証である。

「結果が出ているのに、それを無視することはできないさ」
「…………」
「キミはいい博士になれる。保証するよ」
 
数多ある選択肢の一つとして考えてみて、と彼は笑みを深めた。

「ボクたちはいつか≠フために研究をしている。明日役立つとか、そういうためのものではない。見つけた数値、記した文章、そういうものがいつか誰かを助け、また誰かへと広がっていく。ポケモンを理解し共に歩むため、ずっと彼らと仲間でいられるための研究をしているんだ。未来のための研究さ」
「……未来のための研究」
「そう。すごく途方も無くて、やりがいのある仕事だ。それをアイルくんならきっとやり遂げられると、ボクは信じている」
 
キミならいつだって歓迎するよ、というプラターヌの言葉をアイルは静かに聞いていた。 
ALICE+