暁天を結う


時間だ。
パソコンモニターの隅に表示されている時刻を確認して、アイルは震える指でブラウザの更新ボタンを押す。永遠に感じる数秒のローディングのあと、切り替わる画面。祈るような気持ちで薄目を開けて、映る文字を読む。

「!」
 
その内容を認識した途端、アイルは勢いよく立ち上がり――むしろ勢いがよすぎて、いろいろな場所に足をぶつけながら――部屋から飛び出た。彼女が向かうリビングのソファでは、ワタルがエネコのブラッシングをしていた。慣れた手つきではあるが、どこか落ち着かない様子の彼はどたばたと近づく音に顔をあげる。ああ、きたか、と肩を竦めながら。

「ワタルさん!」
 
頬を染め、駆け込んできたアイルの表情を見て、ワタルは彼女の声を聞く前に「おめでとう」と微笑む。口に出そうとした言葉をぐいと飲み込んで、渋い顔をアイルは浮かべた。ワタルの返答はまさに自分が望んでいたものだったから、余計に。

「なんでわかったんですかぁ……」
「わかりやすいからな、きみ。そういうところ、本当に変わらないままだよ」
 
膝に乗せたエネコをワタルは優しい手つきで寝床へ運ぶ。エネコはアイルに向かって一声鳴いて、そのまま丸くなった。相棒からもぞんざいに扱われたため、アイルは「ひどい!」と叫ぶ。その様子を見て、ワタルは声をあげて笑った。

「もう!」
「はは、すまない。まあ、でも――」
 
恋人が拗ねる前に、とワタルは腕を広げる。その意味を察したアイルはすぐに嬉しそうに表情を変えた。

「きみの言葉で聞きたいな」
「……では、改めて」
 
こほんと咳払いをしたのち、アイルは満面の笑みを浮かべながら、その腕の中に飛び込む。待っていたとばかりに、ワタルは強く彼女を抱きしめた。そのあたたかさを感じながら、アイルは告げる。

「私、博士≠ノなれました!」



アイルの「したいこと」――つまりそれは、プラターヌの勧め通り博士号の資格を目指すこと。研究分野はもちろん「ポケモンエネルギー」である。ポケモンのもつ不思議なチカラの謎を解き明かそうと決めたのだ。
推薦はプラターヌにもらい、必死に書き上げた論文を提出したのが数ヶ月前。その審査結果が本日、出る予定となっていた。言うまでもなく――結果は望んでいた通りのもの。

「本当におめでとう。信じてはいたけれど、こうして目に見える形になると嬉しいものだな」
「でもかなり時間かかりました。ワタルさんにもたくさん迷惑をかけちゃったし……」
「おれは迷惑なんてかけられた覚えはないけどね。きみが頑張ったから実を結んだんだ。おめでとう、アイル博士」
「んん、ワタルさんにそう呼ばれると恥ずかしいかも」
「ほう? なら、慣れるまで呼んでおこうか。アイル博士?」
「やめてくださいって!」
 
からかってる! とアイルが怒るとワタルは愉快そうに笑って、彼女の頬にキスを落とす。身体をさらに引き寄せ、抱きしめるのも忘れない。

「こ、こんなことで、誤魔化されないんだから……」
「はいはい」
 
くちびるをとがらせながらも、アイルの腕が自分の背中に回っていることを、他ならぬワタルはよく理解している。
想いが通じ合った二人は順調に交際を続けていた。ワタルに振り回されたり、アイルが振り回したり、にぎやかで穏やかな毎日。時には喧嘩もするけれど、ごくごく普通で甘やかな恋人生活を過ごしている。ワタルから提案された同棲も含め、二人らしいペースでさらに関係を深めていた。

「……ねえ、ワタルさん」
「ん?」
 
アイルは彼に向き直る。ワタルの深い灰色の瞳をじっと見つめ、口の中で「よし」と己を奮い立たせる。自分が無事に博士になれたあかつきに、言おうと思っていた言葉が彼女にはあった。

「私と家族になってください」
「…………」
「結婚してほしいです、私と。あなたと、ずっと一緒にいたいから」
 
ワタルは一瞬だけ呆けたあと、大きく息を吐いて、天を仰ぐ。彼から奥歯を噛みしめる音が響いたが、その耳がほんのりと赤くなっていることにアイルは気づいていたので、なにも怖くはない。むしろしてやったりとさえ思っていた。

「言えてよかった。ちゃんと区切りつけてから伝えたかったので」
 
微笑むアイルにワタルは呻き声をあげた。正直なところ、同じことをワタルも考えていたのだ。アイルに先を越されたことへ悔しさを覚えると同時に、二人の未来が約束されていたことに嬉しさを感じる。けれどやはり――

「おれが言いたかった」
「ふふん。告白の時は譲りましたからね。今回は絶対に、私から言いたかったんですよ!」
 
それでお返事は? と尋ねる彼女へワタルはニヤリと笑って、答えた。

「おれもアイルと家族になりたい。結婚しよう。おれの隣にこれからも、アイルにいてほしい」
「はい、喜んで!」
 
喜びのあまりじゃれついてくるアイルを受け止め、ワタルはこれからのことを考える。一族への挨拶とリーグ関係者への連絡。前者はイブキが吠えてくるだろうな、後者はシロナか――とさまざまな厄介事がいくらでも浮かんできた。しかしすぐさま「問題ないか」と思い直す。

アイルとなら、そんなことをあっという間に乗り越えてしまうだろう。目の前の恋人はそういう女性だ。己は間違いなく、そんな強さと心根に惹かれたのだから。いつだって彼女は期待を裏切らない。

「アイル、キスしたい」
 
蕩けるような甘い声。恋人にしか向けない優しい瞳に浮かんだ、ほんのちょっぴりの欲。その熱にあてられたアイルは視線を彷徨わせて、か細い声で彼の欲へ答える。

「……いちいち訊かないでください」
 
絞り出した遠回しな了承の言葉にワタルは喉の奥で笑いながら、アイルのやわらかなくちびるを味わった。存分に堪能したあと、少しだけ息のあがった声で囁く。

「愛している」
「私も、です」
 
そして再びキスを交わす。そこにある確かな幸せを噛みしめ、新しい幸せが約束された喜びを感じながら。あたたかな陽だまりの中、お互いがそこにいることに愛おしさを募らせていた。
二人はこれからも次の朝を探し、迎えにいく。ずっと一緒に、愛を紡ぎながら。
 
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