ぱくん、と一口


ホウエンのトクサネ宇宙センターが発見したとされる宇宙研究の記事を読んで、はたとアイルは思い出した。帰りの船でワタルが自分にしてくれた恋愛相談のことを。話を聞いたあのときはてっきりシロナへ向けた恋だと決めつけていたけれど、今の自分たちの関係を鑑みれば誤りであったことは明白だ。
それをわざわざ確認する必要は正直なところまったくない。……ないのだけれど、思い出してきたら気になってしまったのもまた事実。しばらく悩んでから「別に避ける話題でもないか」と結論を出したアイルは、ちょうどリーグとの電話を終えたワタルへ尋ねた。

「ホウエンからの帰りの船で話したことなんですけど」
「なんだい、藪から棒に」
「あのときの相手って、もしかしなくても私だったりしますか?」

そう訊くことをアイルは自意識過剰と思わなかった。答えは簡単。ワタルが短期間で想う相手を簡単に変えるような人間ではないことを知っているからだ。こうしてお互いの気持ちが通い合った今≠ェ確かに存在している。深く考えずとも、彼から出るであろう答えは明白。だからこの問いは本当に興味がわいただけのこと。それと念のための確認をしたくなったのだ。万が一、億が一、ワタルがシロナを想っていた過去があるのなら、ちゃんと自分は受け止めなくてはならない。ワタルを疑うわけではないけれど、やっぱり否定の言葉が彼自身から欲しかった。信じているけれど、証拠はほしい――アイル自身も驚くほど、複雑な感情が胸の内に渦巻いている。これは“うずしお”の技でも消すことができなさそうだった。

案の定、隣にいたワタルはすぐさま渋い表情を作る。一瞬でアイルが抱く複雑な感情を見抜いたのだろうか、深いため息も同時に吐き出した。つまりそれが全ての応え。アイルの考えていた通りの結果であることは明白だった。

「なにをいまさら……」

ワタルの様子に心が軽くなったは束の間。彼から発せられた、呆れたような声はいつも以上に低音。しかも地を這うような暗さも含んでいる。思わずアイルの身体が震えた。ワタルとは違って、上ずった声でしどろもどろに反論を返す。

「だ、だって! あのときは、てっきりシロナさんのことだと思っていたんです!」
「おれが彼女に? とんだ誤解もいいところだな」

やれやれとワタルは首を振る。
一方でアイルは気まずそうに視線を逸らした。だって仕方ないじゃないですか、の言葉をのみこむ。本当にあのときはそうとしか思えなかったのだ。わかってほしい。まさか自分にワタルは心を傾けてくれているなんて想像がつくはずもない。いま思い出したとしても、二人で並ぶワタルとシロナはやっぱりお似合いだ。地方を背負うチャンピオン同士であり、頂点に至るバトルトレーナー同士。くわえて旧知の仲。勘違いしないほうが難しい。自分でなくとも誤解してしまうはず。さすがに口に出さないがアイルはひっそりと反論を重ねた。

「確かに彼女は理知的で、魅力に溢れた女性だけどね」
「……?」
「おれが夢中になっているのは、今も昔もアイルだけだよ」

あの時の言葉はきみにも当てはまると思うんだけどね。
ワタルがそんなことを言うものだから、アイルは過去を振り返る。……なんとなく自分自身にも当てはまらなくもないような。
「やるべきこと」は己が抱えていた使命に他ならなくて。それをワタルが自分の気持ちを押し込めてまで応援していてくれていたことに、改めてアイルの胸に嬉しさがこみあげる。さまざまなところで自分はワタルに愛されていたのだ、と。渦巻いていた複雑な感情が、しゅるしゅると消えていく。

――けれど、さすがにどうかと思う部分もあった。正直なところ、アイルはワタルが口にしていた自身への評価に疑問を抱かずにはいられなかった。ちょっと……いや、かなり過大評価、もとい美化しすぎじゃないだろうか。アイルが思いだす限り、すごく嬉しいことをワタルはいくつも言ってくれていた。しかしどれもそれらは彼女にはまぶしすぎる。そんな評価をワタルにされるほど、自分が相応しい人間とは到底思えなかった。恋は盲目だというけれど、まさか自分の恋人にも当てはまるなんて。

そんなことを考えこむアイルの横顔を、ワタルは先ほどとは打って変わって優しい瞳で見つめていた。その表情に怒りはない。どちらかというと嬉々とした感情さえあった。理由は簡単。自分のことで一喜一憂する恋人を見るのは楽しいだ。なにしろ普段振り回されているのはこちらのほうばかり。たまには振り回されてもらわないと。やはり攻める方が自分には合っているのだから。

ワタルは空いた手を恋人へ延ばす。ほんのりと赤みを帯びたアイルのやわからな頬に指先でふれた。誘うようにやさしく撫でると、さすがに彼女も顔をあげる。状況が掴めずきょとんとした表情にワタルは胸を擽られながらも、しばらくその甘さを堪能した。満足したのちに、今度はアイルの身体ごと自身へ引き寄せる。
ぐっと近づいた二人の距離はお互いの吐息を感じるほどに近い。途端にアイルの頬は真っ赤に染まる。それに気づきながらも、ワタルはさらに距離を詰め、囁いた。

「変なことを考えていただろう、きみ」
「……そんなことないです」
「おれに隠し事ができるとでも?」
「できます!」
「無理だよ」

ばっさりと切り捨てた言葉に重ねて、ワタルは言った。

「おれほど、アイルのことをすべてわかる人間はいないのに」

自分は彼女のことならば、どんな些細なことにでもわかる。誰しもが気づかないことでも、自分は違う。その自信がある。それだけアイルを見つめ、胸を焦がしていたのだ。お互いの視線と想いが交わるそのときまで。
いや、交わらずとも。「恋人」という関係になることができなくとも。アイルが他の誰かを選んだとしても。己は永遠にアイルに恋心を捧げ続けていただろう。そんな確信が、ワタルにはあった。

「おれ以上にきみに恋していた人間はいない。断言する」

声にのせられた感情はアイルの想像以上に甘く、重かった。
熱のこもるそれを受けた彼女の口からもれるのは言葉にならない声ばかり。いまにも頭から湯気が出そうなほどに照れる恋人にワタルは喉の奥で笑い声を噛み殺す。かわいらしい、愛おしい、心が満たされる。そんな存在がいま、腕の中にいる。

「あと、自分が考えている以上にアイルは顔に出やすいからな? 隠し事をしようなんて、そもそも思わないほうがいい」
「……ワタルさんが、目敏いんです」
「はは。それは否定しない」

実際、ワタルの観察眼は最高峰のバトル環境で鍛えられ、一般人のそれとは比べものにならない。彼自身が持つ精神力とも噛み合って、アイル相手でなくとも隠し事なんてすぐに見抜いてしまう。それを本人も自負していた。

――だからこそわかるのだ。自分の想いをちゃんと正しくアイルが受け取ったことに。どれほどワタルが「アイル」という存在を愛し、求めているかを。これで彼女はちゃんと心に刻みこんだことだろう。その事実をワタルは内心でほくそ笑みつつ、しかし念のための一押しも忘れない。なにしろワタルは手を抜くことをしない男であるからだ。

「覚悟しておいてくれ。おれはきみを一生手放すことができないからな」

ワタルは言うや否や、アイルへキスをした。彼女の返事まで食べてしまうようなキス。実際、食べてしまったのだろう。それほどまでに熱く、激しいキスが二人を繋ぐ。
言葉通り「手放す気はない」としか表しようのない彼の愛情を感じる激しい猛攻に、アイルはただただ翻弄され、甘い声をあげることしか許されなかった。
 
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