邂逅・前


さあ、もう寝ようとベッドに入り込んだタイミングでアイルはおずおずと口を開いた。「ちょっと聞いてほしくて」と躊躇いがちに切り出した声を聞いたワタルは続きを促す。「いくらでも」の返答を聞いてアイルがすぐさまに仰向けにしていた身体を横に倒した。その姿をみて、ワタルを噛み殺す。あまりにもわかりやすい行動だったからだ。

申し訳なさそうにしながらも随分と前のめりだな、なんて口にしたら最後。アイルは途端に拗ねてしまうだろう。なのでぐっと飲み込んで我慢する。そんなワタルの胸中に気づくはずのない彼女は掛けていた毛布をぎゅうと握った。なめらかな生地にわずかに跡が残る。

「パルデア地方のアカデミーから講演依頼のメールが今日きたんです」
「あの名門校の?」
「まさしく、そこです。生徒たちに向けた進路選択授業の一環として、私に声をかけてくださったようで」

ポケモン博士としてはまだまだ新米のアイルに届いた一通のメール。差出人はクラベルという人物から。そして、その名前にアイルは心当たりがあった。たしか、パルデア地方の研究者だったような。けれども彼はすでに第一線からは引退をしているとも聞いている。そんなクラベルが自分にメールをしてくる理由はすぐに浮かんでこない。

疑問を抱きながらも、メールを開く。時差を感じる時間帯に送信されたそれに彼女は目を通した。
丁寧な挨拶から始まったその内容はいたってシンプルなもの。自身が校長を勤めるアカデミーで講演をしてほしいとのことだった。ポケモンレンジャーから研究者へ大胆にも転向したアイルの経歴と発表した論文を見て、声をかけたのだという。将来に迷う生徒たちの進路選択の一助にぜひ力を貸してくれないかとも添えられていた。
加えてアイルの研究分野であるポケモンエネルギー≠ノ関しても元研究者としてクラベルは興味を示しているようで、そちらについてのディスカッションを希望する旨も書かれていた。

正直言って断る理由などアイル側にはありはしない。丁寧なスケジュール日程と依頼の内容、そして目的。どれも簡潔勝つ過不足がないそれにから優秀な研究者としての片鱗が垣間見える。そういった人物と直接やりとりができるのはアイルとしても願ったり叶ったりだからだ。けれども——

「きみが渋い顔をしている理由を当ててみせようか」

ワタルの指がアイルのゆるやかに前髪を弄ぶ。指先からこぼれるさらさらと流れる心地に彼は目を細めた。甘やかな恋人とのふれあいを経ても晴れることのない表情からは睡魔の欠片は見えない。むしろ不安げに揺れている。

このままだと寝不足だろうな。まったく変なところで頑固なんだよな、きみは。そこも魅力的だが。
ひっそりと心の奥で想いを連ねたワタルは静かに口を開く。

「自信がないんだろう? そんな大役を任されられることに」
「……」

無言は肯定。ワタルに図星を刺されたアイルはいまだ自身の前髪で遊ぶ指先にさえ何も言えなかった。
自信がない。まさに指摘されたその一言に尽きる。
当初は嬉しかった。自分にこういった依頼が来るなんて思わなかったから。承諾のメールを送ろうとした直前、ふいにアイルは考えこんでしまったのだ。自分は博士として大人として、アカデミーに通う将来の明るい生徒たちに講演≠ナきるような立場だろうか、と。

多くの人に支えられ、助けられ、時の歯車≠解決した。けれどもそこにあった自分の力はごくわずかだろう。そのうえ研究者として進む道も自分から見つけたものではない。プラターヌに示してもらったものだ。

アカデミーの生徒に年齢の制限はないと聞く。上にも、下にも。さまざまな事情があって、改めて学問の扉を叩いた生徒も多い。だからこそ余計に「進路選択」という重要な部分に果たして自分は介入をしていいのだろうか。胸を張って生徒達の前に立てるほどの実績があるのだろうか。

言葉に説得力を持たせるには行動が伴わないといけないことをアイルはよく知っている。なにしろ目の前の男が「そう」なのだから。

悩めば悩むほど、キーを打つ指は遅くなり、最後には止まってしまった。メールは書きかけのまま、放置される。
一日ちゃんと考えよう。そう決めてパソコンの電源を落とした。こんなブレた気持ちのままでは承諾するにしろ断るにしろ、先方にも失礼だろうと思って。

本当は一人で答えを見つけるつもりだった。自分自身の問題であるとアイルは理解していたから。けれども。こうしてゆったりとした時間の中でワタルの顔を見たら、無性に相談をしたくなってしまい——今に至る。
こういうところでも私ってだめだな、とアイルはくちびるを噛みしめる。なんだか不甲斐なくてたまらなかった。

「アイル」

名を呼ばれてもなお俯く顔をワタルは無理矢理あげさせる。視線が絡み合った。
ワタルの瞳が強い光を放ってアイルを見つめていた。ただまっすぐに、彼女だけを。全てが見透かされるような眼力にアイルは思わず息をのむ。しかしそれは恐ろしいものではない。優しく穏やかな光を溶けさせ灰黒の瞳は揺れることなく、彼女にのみ向けられている。

「自分の力量を客観的に判断できているのはいい。しかし、見誤ってはいけないな」
「どういう……?」
「きみはちゃんとできる$l間だということだよ。多くの人が力を貸すのはきみに期待をしているから。そしてアイルがその期待に応えられる人物だからとわかっているからだ」

もちろん、おれもね。
ワタルはさらに言葉をつなげる。やわらかな声とともに。

「行動が伴わないと言葉に説得力が生まれない、と言ったね。たしかに正しい。けれども、それを言い訳にしてはいけないな」
「……いいわけ」
「ああ。月並みな言葉を言うけどね。誰にでも初めてある。おれだってそうさ。けれどそれに臆することはない。してはいけない」

初めてのものにはどのようにも痛みが伴う。それは軽傷かもしれない。はたまた重傷で、取り返しのつかないことかもしれない。けれどそれは所詮「傷」。いつかは癒え、治るものだ。その先に待つ大きな成長と共に。

「失敗したっていいんだ。完璧な人間なんてこの世にはいない。だからおれたちは人間同士、そしてポケモンと共に生きている。手を取り合って。助け合って生きている」
「……」
「きみは誰よりも、それを知っているはずだ」

ワタルは微笑み、言う。

「アイルなら大丈夫だ。自信を持つということは簡単なことではないけれど、きみはちゃんとそれを抱いて進むことができる人間だ。——だからアルセウスもきみを選んだ」
「そこでその話を出すのはずるいぃ……」
「おっと、それはすまない」

悪いと思っていないくせに、とアイルは不満げにするがワタルは肩をすくめるばかり。「やっぱりわざとだった!」「おれはなにも言っていないが?」「顔に書いてあります!」なんて他愛のないやりとりを重ねていくと、アイルの表情に明るいものが混じりはじめる。

もちろん、それをワタルが見逃すはずもなく。彼は前髪で遊ぶのをやめ、恋人を抱きしめた。体温を伝えるように。そのうち、おずおずと彼女のほうからも背に腕が回される。彼女からも伝わる体温と聞こえる心音にワタルは深く息をはいた。自身の腕の中に閉じ込めた恋人はその様子を見て、くすぐったそうに笑い声をこぼす。

ただひたすらにその存在が愛おしかった。恋人がこうして自分に弱音を吐いてくれることが嬉しいことであるとは知らなかった。これも初めて≠セな。ワタルはわきあがる感情を噛みしめる。胸を締めつける感情は彼の知らないものばかりだった。

覗きこんだ顔からはもう暗い表情は感じ取れない。
大丈夫だ、とワタルは判断をし、アイルの額にキスを落とす。

「——まあ、確かにおれも少し心配なところはあるな」
「えっ、さっきと言っていることが違うんですけど」
「だってきみはほら、無茶をしてトラブルに飛び込んでいく質だろう? おれが心配なのはそこだよ」
「そ、そんなことは……そもそも学校に講演に行くだけですよ? トラブルなんて起きませんって」
「その言葉を信用できないほど前科があることを忘れたとは言わせないからな。目を離していられなくしたのはどこの誰だ?」

まさに行動で説得力が増している悪い例を挙げられてアイルは言葉を詰まらせる。声にならない呻きをあげるしかできなくなってしまった。ちょっと、否、だいぶ身に覚えがあったり、なかったり。視線を泳がし、途端に身体を固まらせるアイルにワタルはこれ以上とやかく言うことを諦めた。心当たりがそんなにあるのなら、注意してほしいところだ、と最後に毒づきながら。まだ自覚があるだけマシか、とも思いつつ。

「けれどアカデミーならまだいいほうだな。打つ手がある」
「え?」
「むしろパルデアでよかったよ」
「え、ええ?」

なんか怖いんですけど……とアイルの反応に対し、ワタルは含み笑いを返すだけだった。
――その意味をアイルはパルデアについてすぐに理解した。

「はじめまして。アイル博士。小生はハッサク。アカデミーの教師をしていますですよ」
「はじめまして、アイルです。この度はお招きいただきありがとうございます」

空港から出たアイルを待っていたのはアカデミーの教師を名乗るハッサクという長身の男だった。てっきりクラベルが待っていると思っていたため、そこにいたのが別人だったことにアイルは多少面食らったが、彼がアカデミーの関係者ならここにいるのも納得できるというもの。
ハッサクから差しだした手を握り返す。重ねられた手の平は大きく、そして熱かった。

あれ? ワタルさんと似ている……?
ふいにアイルの頭をよぎる既視感。ハッサクの手がワタルによく似ているような、そんな気がしたのだ。同じ男性とはいえ個人差があるのだから、そんなこと感じることはないはずなのに。思わず握手した手を見るが、指の大きさや長さ、てのひらの形などが似ているわけもなく。さらに疑問は深まるばかり。
けれども拭えない既視感を抱きつつも、アイルはハッサクの顔を見上げ——

「えっ!? は、ハッサク先生!?」
「うぐっ、ずみまぜん! 小生、どでも感動じで……! うぼぉおい! おいおい!」

もう片方の空いた手でなんとか目元を覆ってはいるが、そこからは滝のような涙があふれている。大声で泣く姿はいやでも周囲の注目を集めていた。
しかし慌てふためいているのはアイルだけ。中には驚いている姿もあったがそのほとんどが観光客のようだった。パルデア現地に住んでいるであろう人もポケモンも、なぜかほんわかとした視線を向けている。まるで「日常茶飯事ですよ」と言いたげに。

「と、ともかく、落ち着いてくださいー!」

切羽詰まったアイルの悲鳴が空港内にこだました。それさえもハッサクの泣き声でかき消されてしまったが。



「いやはや、申し訳ないですよ。小生、お恥ずかしいながらとても涙もろく」

ハッサクの涙がようやく落ち着いたころ、二人はようやくアカデミーへ向かうことができた。
空飛ぶタクシーに遠回りに飛ぶよう伝えたハッサクは眼下に広がるパルデア地方の説明をはじめる。そのわかりやすさと丁寧さは彼が教師であることを雄弁に語っており、先程の号泣している彼とのギャップにアイルは少し面食らっていた。

「ああ、ちょうど見えますですね。あそこに輝いてるのが野生のテラスタルポケモンです」
「通常のタイプとは異なるテラスタイプを有しているポケモンですよね?」
「ええ、そのとおりですよ」
「結構目立ちますね。こんな遠くにいてもわかるなんて。野生ポケモンとしてはああやって光るのは、あまりメリットに感じられないような……」

そもそもどうやって異なるタイプのテラスタル現象を得たのだろうか。エキスパートのトレーナーが育てたとしてもテラスタイプは通常のタイプに依存する。そう簡単に異なるタイプを有することはできないはず。
テラスタルはわざの威力をあげるから、通常野生では得られないわざを覚えることができたポケモンがそのエネルギーを変換した可能性もある? ポケモンの生命エネルギーやわざが持つ特有のエネルギーが作用している可能性も否めないかも……。

考えを脳内で巡らせ、じっと黙り込む真剣なアイルの横顔を見て、ハッサクは優しく目元を緩める。その視線に彼女が気づいたのはしばらくしてからだった。ハッと意識を取り戻したときには、まるで生徒を見守るような眼差しを向けられている。自覚した途端に襲いかかるいたたまれなさと羞恥でみるみるうちに顔が赤くなっていく。小さな声で「すみません」と言うのが辛うじてだった。

「いえ、小生も女性を不躾に見るものではありませんでした。あまりにも話に聞いていたとおりだったもので、つい」
「話、ですか?」
「……もしやなにも?」
「えっと、なんのことでしょう?」

どんなに記憶をひっくり返してもハッサクと会うのは初めてなはず。誰かの話に名前があがってきたことも……無いはずだ。レンジャー時代の記憶を掘り起こしても任務でパルデアに来たことも無い。でもハッサクは自分を知っているようだ。先ほどと同様に思考を巡らせたアイルは「あっ」と声をあげた。
一つ、思い当たる節がある。

「もしかして、ワタルさんのお知り合いですか?」

握手を交わしたてのひら。あれにワタルを感じた理由がわかったからだ。
あのてのひらをアイルは知っている。

「ハッサク先生もドラゴンポケモンをてもちにしていらっしゃいますよね?」
「さすがの慧眼さ。まさしく、そのとおりです」

あれは、ドラゴンポケモンを世話するトレーナーが持つ特有の手だ。ハッサクはワタルと知り合いなのだろう。それなら辻褄も合うというもの。なにしろワタルはフスベ一族の長子。ドラゴン使いで知らぬトレーナーはいない存在だ。

「しかし、惜しい。もうひと声欲しいところでした」
「もうひと声?」
「とはいえこれは、あなたに何も言わないワタルが悪い。……というより、わざと隠していそうな気がしますですよ」

トントンとこめかみを叩き、眉根を寄せる。そしてハッサクは咳払いののち、居ずまいを正した。アイルも思わず背がのびる。
タクシーの窓から差し込む陽を背負い、ハッサクは精悍な面持ちのまま口を開く。

「パルデア四天王が一人、ドラゴン使いのハッサク。——小生は、ドラゴン一族の末席に身を置く男でもありますですよ」
 
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