「アイルくん」

名前を呼ばれ振り向く。案の定、ワタルがそこにいた。ひらりと手を挙げ、こちらへ近づいてくる。

「そろそろ時間だけれど大丈夫かな?」
「はい。大丈夫です」
 
アイルは頷いて、片づけていた最後の一冊を棚に戻そうと、かかとを浮かす。さらに手を伸ばすが、なかなか届かない。ポケモンたちはエネコを残して全員ボールに入っている。わざわざこのためだけに呼び出すのは申し訳ない。もう少し、背伸びをすれば届くはず、とさらにかかとを浮かせようとして――

「ここでいいのか?」
 
耳元に落ちる低い声。背後から覆い被さるようにワタルはアイルの手から本を抜き取った。目的の場所へ、本を収める。

「あ、ありがとうございます……」
 
緊張で声が震える。こんな至近距離で彼の声を聞くとは思わなかったのだ。それに少しだけ触れた指。鍛えられ、傷跡がいくつかついていた。たった一瞬の出来事だったのに、彼の努力に触れた気がして声がうわずってしまう。

「届かないならおれに言ってくれればよかったのに」
「大丈夫だと思ったので……すみません、お手数をかけました」
「こんなことならいくらでも」
 
さあ、閉められないうちに行こうか、と彼は退出を促した。アイルは内容をまとめた手帳を慌ててバッグにしまう。忘れ物がないか確認をし、彼と共に部屋を出た。
夜勤の職員と当番制で待機する四天王たち以外は18時ごろに定時となり、バックオフィス側は閉めるらしい。最初にその説明を受けた時に「さすが公務員」と思ったほどだ。福利厚生がしっかりしているのは素晴らしいことである。

「何か収穫になるものは?」
「はい。とても」
 
さすがセキエイリーグ。参考になったものがいくつもあった。
しかし、ときわたり≠ノついては、ヒワダの資料ほどの収穫は望めなかった。着目されている角度が違うのだろう。けれどそれは裏を返せば、研究の方向性に多様さを生み出すきっかけにもなる。実際、アイルは郷土資料だけでは知ることの出来ない、セレビィの生態について多く学ぶことが出来た。

「それに……」

得られたものは研究のことだけではない。バトルフィールドの熱気はまだ目蓋の裏に焼ついて、離れない。だからだろうか。目の前にいるはずの彼が少し、遠いように感じてしまう。立つ土俵だけではない。ここに至る過程も、自分とワタルとでは雲泥の差があるはずだ。自分は胸を張れるほど、何かを極められるのだろうか。

「そうだ、アイルくん」

深く沈んでいた思考が引き上げられる。

「は、はい! なんですか?」
「この後、予定が無ければ食事でもどうかな?」
「へっ」

ショクジ、しょくじ、食事!?
アイルの脳内は先ほどとは一転してパニックへと陥る。その言葉に深い意味が無いとしても、体温が上がってしまうのは許してほしい。今日、彼の格好よさを確認した矢先のことなのだから。
目を白黒させ、返答に困っているアイルへ「もちろん、他のやつらもいるから」とワタルはさらりとつけ加えた。なにせ、彼女の表情はわかりやすいのだ。さらりとフォローをいれるぐらい、どうってことない。

そんな彼の胸中を知らず、アイルは息を吸って吐いて、その誘いに頷いた。他の人がいるなら、本当に深い意味はないのだろう。変に勘ぐっていた自分が恥ずかしくなる。

「食べられないものは? アレルギーとか」
「いえ、何でも美味しくいただけます」
「そりゃあいいな」
 
軽い雑談を繰り返しながら、廊下を歩く。途中、エネコが抱っこを強請ってくるという恥ずかしい場面もありつつ、会話は弾んだ。ついでに今日、彼のバトルを観たことを伝えれば、ワタルは目を丸くした後、わかりやすく照れた。その表情がかわいいな、とアイルが思ったのは彼女だけの秘密である。

「きみが観ていたなら、もう少しかっこつければよかったかな」
「充分ですよ! すごくかっこよかったので!」
「……そう、それはよかった」
「バトルの面白さが分かった気がします」

それじゃあ、今度一緒にバトルでもしてみる? と彼はからかうように尋ねてきたが、しっかりとアイルはお断りする。自分の力量じゃ、一捻りだ。勝ち目のない戦いをポケモンたちにお願いすることはできない。

「おれはしてみたいな、バトル。アイルくんの戦法が気になる」
「戦法なんて大層なものは無いですよ」
 
シロナとはバトルしたのか、やはりエネコがエースなのか、と嬉々として訊いてくるワタルにたじろぎながら、答えを返す。

「チャンピオン!」
 
会話を遮る声が響く。慌ただしく近づいてくる足音に、アイルの心臓は変に跳ねた。その声が、あまりにも切羽詰まっていたからだ。こちらに駆けてくる職員の表情は酷くこわばっている。瞬間、隣にいたチャンピオンたる彼の雰囲気が一変した。刺すような緊張感がアイルの肌を刺す。

「どうした」

固い声だ。彼に初めて会ったときのような。

「はい! 2番道路に野生のスピアーが大量に発生したとのことです! しかも無差別に人とポケモンを襲っているようで、トキワのジムリーダーより連絡が!」
「わかった、すぐに行く。――すまない、アイルくん。店には先に行っていてくれ。今、教えるから……」
「待ってください。私も連れて行ってくれませんか?」
 
アイルの言葉にワタルは目を見開く。彼が反論をしてくる前に追撃をするかのように言う。

「私もお手伝いできると思います。というより、聞く限りではレンジャー案件です、それ」
「…………」
「実際に現場を確認してみないとわかりませんが、まったく役立たないということはないかと」
「だめだ。きみを危険な目には遭わせられない」
「ワタルさんお忘れですか? 私、かなり優秀なレンジャーだったんですよ? それこそ指名されるような。今なら無料でその任務請け負ってさしあげるのに」
 
軽口と共に、意識して挑戦的に口角をあげる。お買い得ですよ? とさらにわざとらしい言葉を重ねれば、ワタルは「ふは」と表情を緩めた。

「まいった。力を借りても? お買い得なレンジャーさん?」
「もちろんです。むしろ、今回のお礼をさせてください」
 
今の自分にできることを。どんなことでも、自分だからこそできることは必ずあるはずだ。そうアイルは信じている。
腕の中のエネコが彼女を心配そうに見上げてくる。レンジャーを引退してしばらくが経つのに、そんな大口を叩いていいのかと。たしかに相棒の言うとおりではあるが、ルーチンワークとなっているトレーニングは毎日欠かしていないし、今までの経験がなによりの財産だ。そう簡単に衰えはしない。
エネコに「大丈夫だよ」と囁き、アイルは彼の背中を追いかけた。


***


2番道路に駆けつけたころには、すでにトキワのジムリーダーにより一般人は立ち入りが禁止され、関係者しかそこにはいなかった。
スピアー特有の高く密集した羽音が響く中、ワタルはそのジムリーダーへ近づいていく。少年と青年の半ばであろう彼は、トレーナーたちに矢継ぎ早に指示を出していた。

「グリーンくん」
「ワタル! 悪い、そっちにまで話がいっちまってたのか……」
「トキワはセキエイと近いから仕方ないさ。君のせいじゃない。――状況は?」
「見てのとおりだ」

くい、とグリーンが顎で指す方向を見れば、ジムトレーナーたちがスピアー相手に格闘している。
その光景を見て、アイルは率直に「スピアーの数が多い」という印象を受けた。今の時期、スピアーは巣作りで動きが活発になる。そのせいもあって、大きな群れになってしまったのだろう。
どちらにしろ、トレーナーの数とスピアーの数が釣り合っていない。鎮静させたいのは山々だが、トキワのほうに流れ込まないよう留めるのが必死――というのが伝わってくる。

「ほえる≠ナ退けているんですね」

トレーナーたちが指示を出す光景を見て、思わずもれたつぶやきにグリーンは「こいつは誰だ」と視線でワタルに問いかけた。

「元ポケモンレンジャーのアイルくんだ。報告を受けたときにちょうど一緒にいてね、ぜひ協力したいと」
「アイルです、よろしくお願いします。ジムリーダー」
「トキワジムリーダーのグリーンだ。堅苦しいのは嫌いだから、好きに呼んでくれ」

握手と共に交わった視線。探るようなそれは彼女の力量を測っているに他ならない。その瞳にアイルの対抗心が燃える。
久ぶりのミッション、やってやろうじゃないか。
 
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