「はい。これで治療は終わりです。もし、悪化してしまったら病院に行ってくださいね。もちろん『人間用』の」
「ありがとうございます、ジョーイさん。そしてすみません、専門外なのに」
「いえいえ、大丈夫ですよ」

優しく笑うジョーイにつられてアイルも頬を緩める。もう一度頭を下げて、彼女は診察室を後にした。
ポケモンセンターから出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。空には星が瞬いていて、夜の香りが鼻をくすぐる。ふとアイルは人の気配を感じ、そちらを向いた。

「え、えっと……」

腕を組んで、じとりとした視線を投げかけるワタルがいた。壁にもたれる彼からは漂う暗いオーラを前にして、アイルは引き攣りそうな表情を必死に抑える。なにせ、ポケモンセンターに自分を放り込んだ彼は終始怒っていたのだ。あのジョーイがやんわりと「外でお待ちください」と諫めるほどには。それほどに、ワタルが纏っていた雰囲気は尖っていた。

そしてその荒々しさは未だ健在のようだ。アイルは必死に言葉を探すが、見つからない。何か言わないと、と思えば思うほど、口は閉ざされ目は泳ぐ。そんなアイルの様子を見かねたのか、ワタルはため息を吐いた後、頭をがしがしと掻いた。

「……怪我の具合は?」

発せられた声はアイルが想像していたよりもずっとやわらかい。いや、自分の様子を見てやわらかくしたのだと気づく。その寛大な心に彼女は俯いていた顔をあげた。
同時にその表情を見て、ワタルは頭が痛くなる。そんな「怒られなくてすんだ」と尾を振るガーディのように嬉しそうにされると、怒りも抜けてしまうというもの。ああ、本当、この子はわかりやすい、と苦笑した。

「えっと、大丈夫です。ジョーイさんが処置してくださいました。悪化するようなら病院へ、とのことです」
「そうか。なら、明日もアイルくんの様子を見に行かなければいけないな」
「えっ」
「人の目が無いと、悪化しても放っておくタイプだろ? きみ」
「そ、そんなことは……」

無いと思います、と消え入る声で呟いた彼女に、ワタルは盛大にため息をつく。多分、きっと、恐らく……と口ごもるのを目にすれば、誰だってため息ぐらい出るというもの。アイルの自信のない返事に「それみたことか」と頭を小突いた。

「とりあえず、食事に行こう」
「えっ」
「当初の目的はそれだっただろう? 少なくともおれは忘れていないから」
「それはそう、ですけど」

もうてっきり流れた話題とアイルは思っていたのだ。あれからだいぶ時間も経っている。
それを素直に伝えれば「早々に解散しない面子だから大丈夫。むしろきみを連れていくと言ってあるのに、1人で行く方が非難されてしまう」と彼は笑った。
ならお言葉に甘えてしまおう。正直なところ、これから1人で夕飯を、という気分には今からなれないのがアイルの本音だった。


***


他のメンバーが集まっているのはトキワのすぐ近くの居酒屋だという。ワタルが道を知っているので、歩いて向かうこととなった。

「そういえば、きみはレンジャー時代もあんな無茶をしていたのか?」

せっかく逃げられたと思った話題が蒸し返されたことに、アイルは咳き込む。同時にピリリとした緊張感のある空気を肌で感じた。自分では許されたと思っていたけれど、彼的には腑に落ちていなかったのだろう。
無茶と言われれば、無茶なやり方だった。しかしあれがあの状況では最善であり、他でもない自身がやらなければいけないことであったと考えている。そうアイルは信じているし、譲るつもりはない。

「私がやらなければいけないから、やったんです。あそこにいる誰よりも、私がやる場面でした」
「――無茶なことだったとしても?」
「それは結果論です。やる前から、それを無茶と決めることはできません」
「…………」

彼は言葉を探しているようだった。眉根を寄せて、顎に手を当て考え込んでいる。自然と歩みは遅くなり、いつの間にかそれは動かなくなった。アイルも合わせて立ち止まる。

「おれは頼りないか?」
「え?」
「きみが何に怯えているのかわからないが、その不安を拭えないほど、おれは頼りないか?」
「…………」

頼りないなんて、そんなことはない。だってワタルはセキエイチャンピオンで、凄腕のトレーナーで、みんなが信頼する相手で不足はない。自分なんかが口にしなくとも、彼の実力は誰もが認めている。だけど、どうして――

「なんで、ワタルさんがそんな悲しい顔をしているんですか?」

アイルは嘘を言っていない。本当に心あたりがないのだ。なにせ自分はここまで来るのに人に頼ってばかりだ。それなのに、彼は今更何を言っているのだろうか? アイルという人間は、1人では何もできない無力な存在だ。
そう伝えれば、彼は緩やかに首を横に振る。そして子供に言い聞かせるように、静かに口を開いた。

「おれが言っているのはそういう意味じゃない。どうやら言葉にしなくては伝わらないようだから、はっきり言わせてもらう。おれはきみが抱えている――いや、きみに課せられてしまっている『何か』を教えてほしい、と言っているんだ」

殴られた気がした。頭を、身体を、心を。それ≠ヘ隠していたのに。誰にも知られてはいけないと、細心の注意を払っていたつもりだったのに……すっかり見抜かれていたということになる。

「おれはきみとはよい関係を築けていると思っている。だからこそ、何かに追われているきみを放ってはおけない」

悔しげにワタルは拳を握りしめる。

「今回の件だって、確かにアイルくんが適任だった。だが、全てを1人で行う必要はなかった。分担したってよかった。ポケモンを刺激しないで、一緒に行く方法だっていくらでも考えられたはずだ。あそこにはおれがいて、グリーンくんがいて、アイルくんがいた。なんだって思いつく」
 
きみが許してくれさえすれば、と吐き捨てる。

「アイルくん。単刀直入に言おう。きみの研究も、その『何か』に通じているんじゃないか?」
「……そうだったら、ワタルさんはどうするっていうんですか?」
「力になりたい。きみの怯え、震え、負担を少しでも、取り除きたい。――友人として、心配なんだ。知らないところで、今回のように傷を作ってしまうことに、おれが耐えられない」
 
どうして、と尋ねたかった。なんで、と訊きたかった。それだけアイルには彼の言葉が信じられなかったのだ。確かにお互いの関係は良好だろう。だからこそ、これ以上に心を砕く必要はないのだ。いや、踏み込まれては困る。
この重さを彼に背負わせることはできない。

「……すみません。ワタルさんの言う『何か』については、まだお伝えすることができないです」
「まだ、ということは、いつか教えてくれると?」
 
しまった。言葉選びを間違えた。しかし、ワタルに訂正は無理だろう。ここは腹を括るしかない。アイルは唇を噛みしめ、言った。

「いつか、その日がきたら必ず」
「――わかった。きみの言葉を信じよう」
「ありがとうございます。それと……」
「それと?」
 
次の言葉を口に出すか、少し躊躇う。本当にいいのだろうか? と自身に問いかける。同時に、ここでこの約束をすることが、彼への誠意だと訴える自分もいた。
ここまでワタルに心配をかけているのに、何も返せないのは不誠実に他ならない。

「もし、なにかあったら、どうしても困ったことがあったらワタルさんに頼ります。だから、ワタルさんも頼ってください! 私に」
「……それじゃあ堂々巡りだろう」
「いいじゃないですか。結局、人助けってそういうものでしょう? 大体、ワタルさんのほうがいろいろとやることが多いんです! 私ができることがあれば、いくらでもお手伝いしたいです。――私がワタルさんに心置きなく頼れるように、ワタルさんも私に頼ってください」
 
例えば今回のように。結局のところ、彼を心配させてしまう結果になったけれど、自分がいたことでスムーズに解決した事実は変えられない。傲慢かもしれないけれど、グリーンやワタルだけではもっと時間がかかってしまったはずだ。それほどまでに『トレーナー』と『レンジャー』が持つ経験と、対応する範囲の差は大きい。

なにより、あの時、あの廊下で声をあげなければ、ワタルはアイルに頼ろうとしなかっただろう。1人で現場に向かっていたはずだ。だからギブアンドテイク。頼ってほしいというのなら、自分にだって頼ってほしい。

「――わかった。おれもきみの力に頼ろう。確かにこちらではレンジャーが駐在している街はほぼないしな」
「ええ。引退した身ですが、実力はあると自負していますので」
「ああ。今回の件で痛いほどわかったよ」
 
本当、痛いほどに。
ようやく張り詰めた空気が緩むのを感じた。同じくして、自身も許されたのだとわかる。そんな彼女のほっとした表情をすぐさま読み取り、ワタルはぴしりと釘を刺す。

「ああ。でもうあんな怪我をしないでくれ」
「あれぐらい、日常茶飯事でしたよ? レンジャー時代は」
「へえ、やはり無茶をしていたんだな。常日頃から」
 
あっ、藪をつついてアーボを出してしまった。思わず口を押さえるが時すでに遅し。じとりとした視線を笑みで誤魔化す。

「先ほども言ったけれど、おれの知らないところで傷を作らないでくれ」
「えぇ、無理ですよ、そんなの。なんでそんな難しいこと言うんですか……」
「なぜってそれはきみが――」
「私が?」
 
次の言葉を促すが、何も言わない。というより、彼自身も戸惑っているようだ。自分が何を言ったのかわかっていない様子である。「ワタルさん?」と名前を呼ぶと、はっとしたように表情を戻し「なんでもない」と誤魔化すように咳払いをする。

「ともかく、危なっかしいんだから気をつけてくれ」
「はい……」
 
彼が誤魔化したいと思っているのなら、自分もそれに乗ろう。下手につつくと危ない気がしたのだ。それに腰につけたエネコのボールが揺れたので、きっとそれが正解だったのだろうとアイルは無理矢理にでも納得するしかなかった。
少し赤みの増したワタルの横顔には気づかず、アイルは呑気に考えるのであった。
 
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