ラリニとホップの出会いは数年前に遡る。

まだラリニもドライバーの中では新米で、ようやくワイルドエリア横断の免許を取った頃のことだった。緊張した面持ちで彼女がその空を飛んでいたとき、ふと眼下を見下ろしたのがきっかけだった。

「……アーマーガア、ちょっとあの近くに下りてくれない?」
 
指し示すそこはワイルドエリアの中でも、入り組んだ危険地帯。地盤が緩いだかなんだかで、しょっちゅう土砂崩れが起きている場所だ。そのため、タクシーもあまり乗り入れをしない。本当はラリニも近づいてはいけないところだ。

しかし相棒は彼女を信じ、それに応えるように鳴いて、降下を始める。荷籠には客もいなかったので少々乱暴に着陸し、ラリニは背から飛び降りた。
足元の悪い砂利道。たまに転びそうになりながら、気になったそこへ向かう。

「どうして水が……」
 
ここは乾燥地帯で、しばらく雨も降っていない。なのになぜか、ある箇所のみ濡れていたのだ。どこからか水が染み出しているのだろうかと、観察してみるが地面からというより、どこからか流れてきているように見える。
ラリニは足元に注意しながら、その水源を辿っていく。すると土砂崩れが起きたであろう岩と砂、砂利が積み上がったところへ行き着いた。まさか、と嫌な予感がよぎって声を張り上げる。

「だ、誰かいるの!?」
 
仮にこの水が人為的な――例えばポケモンの技のものだったら――誰かが事故に巻き込まれてしまったのかもしれない。
そして、どうやらその考えは当たっていたらしい。かすかに耳をすませると「いるんだぞ!」と少年の声が聞こえてきた。心臓がばくばくと音を立てる。冷静にと自身に言い聞かせ、少年へとまた叫んだ。

「怪我はない!? 閉じ込められているのは君だけ!?」
「大丈夫! 人間はオレだけだ! あとは手持ちと野生ポケモンが数匹いる!」
「わ、わかった! 今、助けを呼ぶから!」
 
震える手で端末を操作して、ワイルドエリア管理センターへ電話する。数コールで繋がった先で状況を説明すれば、すぐにレスキュー隊を手配するとのこと。しばらくそこに待機していてほしいと頼まれ、二つ返事で了承する。次に自身のタクシー事務所へ連絡を入れた。こちらも同様に状況を説明し、業務を離れる旨を伝える。上司から全面的にレスキュー隊へ協力するように指示を出され、通話を切った。

「レスキュー隊、来てくれるって」
「迷惑かけて、ごめん……」
「そんなことないよ! 気づいてよかった」
 
これで現状、ラリニができることは終えた。強いて言うなら少年に声をかけ続け励ますことだが、聞こえる声は決して弱いものではない。
それよりも不安な要素がある。もし、また土砂崩れが起きたら。彼のいる空間を押しつぶしてしまったら。そもそも酸素は足りているのだろうか。
 
一度考えだしたらキリがない。どんどんと心は曇っていくばかり。いても立ってもいられなくて、ラリニは積み上がった岩を崩し始めた。
今思えば、それは褒められた行動ではなかっただろう。しかし、ラリニにとってじっとしていることのほうが罪に思えたのだ。そんなパートナーの姿を見て、アーマーガアも荷籠の上から離れ、その爪で岩を崩していく。羽ばたきがラリニの髪をかき混ぜる。だが、頼もしい相棒の行動に胸を打たれた彼女は気にしない。少しでも早く少年を助けられるようにと、必死に手を動かした。
 
数分後、レスキュー隊とともにナックルジムジムリーダーのキバナが彼女らの元へ到着した。無事救出された少年は、この前のジムチャレンジでセミファイナルまで残ったトレーナーだったのだから驚きだ。ラリニもあの試合をテレビで見ていたのだから。

少年――ホップは、途中ひどい砂嵐に巻き込まれ、野生ポケモンたちとともに洞窟へ避難したという。しかしその天候の悪さ故に土砂崩れが起き、閉じ込められた。スマホロトムも砂嵐のせいで電波が狂い、使えなくなってしまった。困り果てた彼は誰かに気づいてもらえるように、手持ちであるインテレオンのねらいうち≠ナ石を穿とうとしていたらしい。そして、その水漏れをラリニが見つけたというわけだ。

「ありがとう、おかげで助かったんだぞ!」
 
ふいに、ホップの丸っこい瞳がラリニの指先に気づく。ぼろぼろで傷だらけになったそれを見て、彼の心が揺れた。

「ごめん……オレのせいで……」
「ええっと、これは私が好きにやったことだから」
 
視線の先に気づいたラリニは、慌てて指先を背に隠す。しかしその行動が余計にホップのやわい心を乱した。

「でも、オレのせいだ」
 
ぐっと眉根を寄せ、くちびるを噛みしめるホップにラリニはどうしていいかわからなくなってしまった。彼だって自らアクシデントに巻き込まれたわけじゃない。タイミングが――間が悪かっただけなのだ。誰か悪いとか、誰のせいとかではない。それはレスキュー隊もキバナもわかっていることだった。
もちろんそれはラリニだって同じ。むしろ自分より歳下の彼がパニックになることなく、理性的に対処したことを賞賛するほどだった。

それなのにホップは自分を責めようとしている。そんな彼にどんな言葉をかけていいか、正解が見つからない。そんな、おろおろと慌てる様子の彼女が視界の端に入ったキバナはすぐさま状況を理解する。仕方ない、と二人に近づいた。キバナはホップとも見知った仲であったから、彼の性格はよくわかっている。

「お嬢ちゃん、アーマーガアのタクシードライバーだよな?」
 
急に現れたキバナに驚きながらも、ラリニは大きく頷いた。

「インセンティブ制?」
「え、ええと、指名送迎の場合はそうです」
「なるほどな。名刺、あるか?」
「は、はい」
 
言われるがままにジャケットの胸ポケットからケースを取り出す。一枚、そこから名刺を引き抜くとキバナへ渡そうとして――

「オレさまじゃなくて、こっち」
 
彼はホップを指差す。
ホップもまたキバナに促され、それを受け取った。

「ホップ、このお嬢ちゃんに申し訳なく思うんなら、贔屓してやれ。これからタクシー使う機会も増えるだろうしな」
「あ、ああ! わかったぞ! キバナさん!」
「ん、いい返事だ」
 
ホップは急いで名刺に目を通す。書かれた名を呼んだ。

「ラリニ! 今日は本当にありがとうな!」
 
お日様のような笑顔が向けられる。それにラリニは目を奪われた。


***


太陽が煌めく青空へラリニは祈りを捧げる。これはタクシードライバーが皆やる願掛けのようなものだ。広大な高く美しいガラルの空に、今日の安全を祈る。そして無事に仕事を終え眠る頃、月浮かぶ夜空へまた祈りを捧げる。今日の礼と、明日の無事を。
ラリニは朝の祈りを終え、相棒に跨った。そのまま青空へ飛んでいく。今日はナックルの担当だ。決められた区域へ向かっていく。 

駐在エリアに着けば、すぐさまドライバーとしての仕事が待っていた。ラリニはいつになく忙しく、ガラルの空を飛び回ることとなる。昼食も携帯食を頬張るのみ。相棒もわずかなきのみを飲み込んで、また羽ばたく。ラリニたちがようやく一息ついたのは、太陽はすっかり沈みきっており、遠くに星が瞬きはじめるころだった。
 
ラリニはアーマーガアにつけられたハーネスの計器を確認する。定時より前だが、もう一日分に規定されている飛行距離に迫っていた。今日の運行はあと一回だろうと判断し、相棒へ「次飛んだら、もうあがろうね」と背を撫でた。

「悪い、乗っても大丈夫か?」
「もちろんです!」
 
かけられた声に応える。最後のお客様だ、とラリニは振り返った。その客≠見て、息をのむ。

「エンジンまで頼むぜ」
「は、はい! かしこまりました!」
 
慌ててドアを開ければ「悪いな」と微笑を浮かべ、長い足を少し窮屈そうに折り曲げながら、彼は座席に座る。ドアを閉めながら、エンジンのどこへ向かえばいいかを尋ねた。

「この住所の裏手あたりで頼む。大丈夫か?」
 
スマホロトムの画面に表示されたアドレスに目を走らせる。すぐさま脳内に地図が描かれ、その近くにはアーマーガアが着陸できるスペースがあったことも思い出した。頷いて応える。

「お降りの際には一度回りを確認するようにいたしますか?」
 
本来であれば、そのようなサービスは行なっていない。しかし、彼を始めとした『ジムリーダー』なら別だ。――特にその中でもトップクラスの人気を誇るキバナであれば、なおさら。
彼はラリニの提案に目を丸くして、その意図を汲んだようだった。

「……そうだな、一応頼んでいいか?」
「かしこまりました。シートベルトをお願いいたしますね」
 
窓のブラインドカーテンを下ろすと、ラリニはすぐさまアーマーガアへ飛び乗った。自身もハーネスをつけ、防塵ゴーグルを装着する。荷籠に繋がるインカムに「飛びますのでお気をつけください」とアナウンスを入れ、ゆっくりと宙へと近づく。

アーマーガアタクシーのドライバーをしていれば有名人の一人や二人、乗せることだってある。しかし、多くの場合は駐在しているタクシーを使うのではなく、あらかじめ予約をいれて利用するのが主。その場合には懇意のドライバーへ個人的な連絡をいれることが多かった。この仕事を長くしている先輩でさえ、数えるほどしかジムリーダーを乗せたことがないらしい。チャンピオンなんてもってのほか。
初めてのジムリーダーの乗車がキバナだなんて、とラリニは過去の記憶を思い出す。きっと彼は自分のことを覚えていないだろう。けれど、ホップとの繋がりを作ってくれたのはキバナに他ならない。

ふいに先日の告白が耳の奥に蘇った。ドキリと心臓が高鳴り、身体中に熱が回る。
――自分はホップとどうなりたいのだろう。心を真摯に傾けてくれる彼へ自分はどんな気持ちを返すことができるのか。ホップのことは好きだ。好きだけれど、この気持ちは『恋』と呼んでもいい? まだラリニの中で答えは出ていない。そもそも『恋』だの『好き』だのがよくわからなくなってきた。
 
悶々と悩んでいる間にも目的地であるエンジンシティが近づいてくる。ラリニは示されていた住所へアーマーガアを誘導した。静かに、そして揺れることなく着陸を成功させる。周囲の様子に目を配り、人の気配が無いことを確認した。アーマーガアも警戒している様子はないので、大丈夫だろうと判断する。
ドアをノックし「誰もいないようですが、どうなさいますか?」と車内のキバナへ尋ねる。しかし、返事はない。もう一度ノックをするが、やはり答えは無い。断りを入れ、ラリニはドアを開けた。

「お客様?」
「……っと、すまない。少し呆けていた」
 
スマホロトムへ視線を落としていたキバナは苦笑し、眉を下げた。その様子に少し違和感を覚えたラリニは、シートベルトを外そうとした彼を制する。
「なにかありましたか? お力になれることがあれば遠慮無くおしゃってください」
 
必要であれば、また空を飛んでもいいと思ったのだ。しかし、その考えは少々的外れだったらしい。
「待ち合わせをしていたんだが、相手から遅れそうって連絡が来てな。どうしたモンか、って考えていただけだ。気を使わせて悪い」
「いえ。そんなこと……」
 
表へ出ればいくらでも時間を潰せるようなカフェやブティックがある。しかし、そこで注目を浴びるのは彼の本意ではないだろう。わざわざ裏手の通りを指定したことからも、それが窺える。ラリニが悩んだのは数秒だった。

「よければここで待っていてください」
 
彼女の提案を聞いたキバナは目を丸くする。彼が口を開く前に、矢継ぎ早に言葉を重ねた。
このあとは事務所に帰るだけということ、今日はたくさん飛んだから、帰る前に少しアーマーガアを休ませたいこと。
一通りの説明をすれば、キバナは詰めていた表情を緩め「じゃあお言葉に甘えさせてもらうわ」と座り直す。

「なら、ついでに話し相手にもなってくれねぇ? 会うの、久しぶりだしな」
「……え? 覚えていてくださったんですか?」
 
今度はラリニが驚く番だった。上ずった声を出す彼女へキバナは笑い声を漏らす。

「オレさま、記憶力はいいんだ。だからむかーしのことも覚えてんの。ドラゴンタイプだからかもな」

冗談めいた口調につられ、ラリニも頬が緩む。たしかにドラゴンタイプは昔からの遺伝子を持ったポケモンが多いから、過去のことをよく覚えている人へ比喩として使うこともあるけれど――まさかドラゴンストーム自身がそれを用いてくるなんて思わなかったのだ。

「じゃあ、少しだけ。お相手さんが来るまでお付き合いさせてください」
「ああ。頼むぜ」
 
とはいえ、荷籠へラリニが乗るわけにもいかない。ラリニは外で首元のマイクを通し、外から彼と会話することにした。
キバナはさすがと言っていいほど、話術に長けていた。一つの話題でも、どんどん内容が膨らむ。彼の話を聞いて、自分の話をする。そして自然と、過去の出来事へ移っていった。

「そういえば、ホップとはまだ会ってんのか?」
「え、ええ。そうですね。よく指名をくれます」
 
そうか、とキバナは声を弾ませる。可愛がっている弟分が、ちゃんと誠意を示していることが嬉しかったのだ。一方でラリニはドキドキと心臓が跳ねていた。変な声が出ていなかっただろうか、と心配になる。

「そういえば、お相手さんからご連絡はきましたか?」

ラリニは話題を逸らすかのように、いかにも今思い出しました、といった声音でキバナへ尋ねた。キバナはその声に違和感を覚えつつも、まだ連絡が来ない旨を伝えた。

「まあ、待つのは慣れているからな。アイツを待つのはオレさまの特権だから、苦にもならないんだわ。こうみえても純情タイプなのよ。キバナさまは」
「…………」
「おいおい、呆れないでくれよ。もしかして、お姉さんもオレさまのこと誤解しているクチ?」
「そんなことは!」
 
本心だった。彼のことを軽薄だと騒ぐマスメディアを目にしたことは多々あるが、少なくともラリニは過去の出来事からキバナのことは真面目で親切な人物であると思っている。違う理由で言葉を失っていたのだ。今の彼の口ぶりは、まるで恋人を待つかのように聞こえたのだ。同時に自身に向けられた恋へと重ねてしまう。

「そうじゃなくて、ええと……」
 
言い淀むラリニにキバナはピンと閃く。年の功とはよくいったもので、すぐさま彼女の声に恋の予感を嗅ぎ取った。

「……オレさまでよければ相談に乗るぜ」
 
静かに誘いの言葉を流す。ラリニは迷いを浮かべるものの、その優しい声に促されるように話し始めた。

「ゆ、友人だと思っていた人に、好きだと言われて」
「恋の告白を受けたってことか?」
「はい……」
 
当たり前だがその相手がホップであることは避けつつ、ぽつりぽつりと抱いている迷いを呟く。
友人だと思っていて、かわいい弟のような存在であったこと。でも彼はとっくに大人≠ナ、自分のことをずっと想っていてくれたらしいということ。先日、告白を受け、返事を保留にしているということ。
――『恋』という感情がよくわからなくなっているということ。

「人並みに恋もお付き合いもしてきたはずなんですけど、今回ばかりはよくわからなくなっちゃって……」
「なるほどな」
 
さて、何を伝えようか、とキバナは考える。震えて迷うラリニの心は痛いほど彼に刺さっている。だからちゃんと自分も真摯に答えないといけない。キバナは長い指でスマホロトムの画面をスワイプする。画像フォルダから、とある写真を引っ張り出した。それを見る度に、彼の心には淡く優しい明かりが灯る。それが『愛おしい』という感情であることを、キバナはよく知っていた。

「人によってその気持ちは千差万別だろうし、あくまでオレさまの一意見として聞いてくれ」
「……はい」
「オレさまは――オレはそいつに『会えてよかった』って思ったんだ。出会えてよかった、ってな。それが初めて恋を自覚した瞬間だった」
 
瞼を閉じた暗闇に浮かぶのは愛おしい相手の姿。

「そいつをめいっぱい甘やかしたいし、幸せにしたい。他でもない、オレが。同じくらいオレのことも幸せにしてもらいたい。あげてばっかり、もらってばっかりはオレたちの性にあわねぇからな」

だからいくらでも待てる。どのくらい時間が過ぎようと、それが年単位になろうとも。待ちたいと思うし、自身の時間を捧げたいとも思う。同様に捧げてほしいという独占欲も。

「恋愛っていうのは、綺麗ごとだけじゃないからな。アイツを誰にも渡したくないっていう独占欲ももちろんあるぜ。そばにいたくて、その隣は誰にも譲れない。オレの全てはアイツのもので、アイツの全てもオレのものにしたい――そういういろんな感情が混ざり合って、『恋』も『愛』も紡がれる」
 
だから、答えは一つじゃない。結局のところ、自分の気持ちを見つけられるのは自分だけなのだ。

「お姉さんも想像してみな。自分以外がそいつの横に立って、そいつの笑顔も、泣き顔も――全部全部、自分じゃない『誰か』に向けられている。そのとき、自分がどう思うかってな」
「…………」
「っと、悪いな。連絡、きたわ」
 
その言葉につられて顔をあげれば、確かにこちらの様子をちらちらと窺っている人影が見える。ラリニは軽く会釈をして、キバナへ人影の特徴を伝えた。やはり件の待ち人だったらしい。
改めてラリニはドアを開けた。

「長い時間、ありがとうな」
 
そう言ってキバナは乗車賃を渡してくる。その額は規定のものよりも断然多い。残りを返そうとするラリニを、キバナは有無を言わさぬ笑みで黙らせた。

「チップだ。受け取っておいてくれ。――オレさまが、お姉さんを指名するにはどうしたら?」
「……ラリニと、ご用命いただければ」
「そっか。ラリニ、ありがとうな。オマエならちゃんと答えを出せると思うぜ」
 
キバナはぽんと彼女の頭へ手を置いて、荷籠から出た。そして待ち人の元へ一直線へと向かう。その勢いのまま相手を大きな腕の中へ閉じ込めた。相手からはくぐもった声が聞こえてくるが、非難の言葉はない。腕が彼の背中に回ったのを見るところ、相手も悪い気はしていないのだろう。

ラリニは二人へ頭を下げ、準備を整えたのち、静かに飛翔した。


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