いつもより丁寧に身支度を整え、ラリニは日課である朝の祈りを捧げる。今日は仕事が休みだが、彼女はアーマーガアに乗る必要があった。――ホップへ会いに行くために。

一晩、ラリニはじっくりと自身の気持ちと向き合った。一時の感情に流されてはいけない。ホップの想いは誠実だから、自分もちゃんと答え≠出さないと失礼だと考えたのだ。そして見つけた想いの答えを持って、ラリニはホップの元へ行こう――会いに行こう決めた。
戸締りを確認し、ボールから相棒を喚びだす。太陽の光を受けながら、アーマーガアは大きな翼を開き、固まった身体をほぐすかのように羽ばたいた。その風でもろに受けたラリニの髪が大きく乱れる。

「もう、せっかく綺麗にしたのに」

文句を言いつつも、声と表情は穏やかだ。手櫛で整える彼女へ「すまない」とでも言うかのように、アーマーガアは擦り寄った。そして囁くような優しさで鳴く。長年連れ添っているトレーナーのわずかな感情の揺れを察したのだろう。大きな一歩を踏み出すことを決めたラリニを応援するかのように、また鳴き声が降り注ぐ。

「うん、ありがとうね。――今日もよろしくね」

任せろと言わんばかりに、アーマーガアは彼女を乗せるため、背を向けた。


***


しまった、連絡を忘れていた。
 
ラリニがそのことに気づいたのは、アーマーガアをボールに戻した瞬間だった。今日のこの時間なら、ポケモン研究所にいるだろうと考え来たのはいいが、これではただ自分の都合を押しつけにきただけだ。普通、アポイントの一つや二つ、取って然るべきだろう。特にホップはポケモン博士になるために勉強中の身だ。しかもここの研究所にはソニアもいる。つまり、彼女にだって迷惑をかけてしまう。
 
自分のことだけで頭がいっぱいで、視野が狭くなっていた。ラリニは自分の浅はかさを恥じながら、今日はいったん帰ろうと踵を返す。勢いのまま来てしまっただなんて、自分もまだまだ子供のようだ。これじゃあ、いつだかのホップを笑えない。
戻したばかりのアーマーガアを再び出そうとして、腰のベルトからボールを外した――その時。

「ラリニちゃん?」
 
ガチャリとドアが開いたかと思えば、そこから顔を出したのはソニアだった。呼ばれた名につられ、振り返れば彼女の丸い瞳とばっちり目があう。ソニアは少し呆けたあと、何かに気づいたかのように飛び上がり、一目散にラリニの元へ駆けてくる。

「ホップに用事ね!?」
「え、えっと……」
「いいの、全部言わなくても! ぜーんぶお姉さんはわかっているから!」
 
ソニアはラリニの手をぎゅっと握りしめ、離さない。そのまま手を引きながら研究所の中へ入っていく。ラリニはその力強さに負け、後ろをついていくことしかできなかった。特に彼女の言った言葉はあながち間違いではなかったから、否定することもできない。呻き声に似たしどろもどろな返事しか出すことができず、それも聞き届けてもらえない。
勢いのままソニアは来客用のソファへラリニを座らせ「そこで待っていて」とウインクを飛ばす。

「いま、ホップを呼んでくるから。奥の資料室にいるからすぐに来るよ」
「そ、その、えっと」
「あ、もしかして迷惑かけたと思ってる? そんなのぜーんせんだから大丈夫! そういえば私服初めて見るね。最高にかわいいじゃん! 似合ってるよ!」
 
言うだけ言ってソニアは鼻歌交じりに資料室へ向かっていく。残されたラリニは呆然としたままだ。しかし、すぐさま我に返る。ホップを呼んでくる、と彼女は言っていた。すなわち、もう逃げられないということ。途端にドクドクと心臓が激しく動き始めた。頭から湯気が出そうな勢いで顔を赤くなっていく。
 
いつの間にかやってきたワンパチが撫でてほしいと尻尾を振ってアピールしていることにも気づかず、ラリニはソニアが消えていったドアの先を見つめることしかできないでいた。しばらくするとどたばたと音が響き、勢いよく駆けてくる音が近づいてくる。しかしそれはドアの前でぴたりと止まり、一拍置いてから控えめにノブが回された。わずかな隙間が生まれ、そこからラリニの姿を確認したのだろう。次の瞬間、大きく開かれたドアからホップが姿を現した。
 
彼は上ずった声でラリニの名を呼び、おずおずと彼女へ近づいた。ラリニもまたソファから立ち上がり、ホップの元へ歩み寄る。二人の距離は近づき、視線が重なった。しかしどちらも声を発そうとしない。互いの出方を伺っているというよりは、今までどう会話をしていたのかを思い出せないでいるようだった。ラリニは己の恋を自覚し、ホップは想い人のその様子を見て淡い期待を抱いたせいで。ワンパチだけが楽しそうに二人の足元をぐるぐると回っている。早く二人に構って欲しいのだ。
 
その様子を影から見守っていたのはソニアだ。弟分であり頼れる助手であるホップの恋路が気にならないわけがない。彼自身の口からラリニへ告白したという報告も聞いている。そして、今、ラリニからホップへ会いに来た――もうこれだけで何かが起きると言っているようなもの。良いほうへ転ぶのか、悪いほうへ転ぶのかはわからない。でも、なにかあれば自身がフォローしようと決めていた。それが年上のよき友人としての役目である。つまり、彼女は一人、決意に燃えているのだ。
 
ソニアはわざとらしく咳払いをしながら登場し、二人の注目を引き付ける。そして余裕たっぷりに微笑んだ。彼女の見るからに作られた笑顔にホップが渋い顔をする。なにを言われるのかと身構えるほどに、ソニアは『笑顔』だった。

「二人とも、ちょっと出かけてきてほしいの」
「は? なにを……」

ホップの言葉をソニアは『笑顔』で遮り、続けた。

「さっき、おばあさまに家へ来てほしいって連絡もらって。代わりに行ってきてくれない?」
 
嘘ではないが、決して火急の用事でもない。きっとたくさんスコーンを焼いたから、とかそんな用事に決まっている。でもちょうどいい。これで二人にお使いに行ってもらおう、とソニアは考えた。しかし「でも……」とホップは戸惑いながら切り出す。

「これからジョウトの博士からポケモンエネルギーについての大量の書籍が届く予定だぞ? ソニア一人じゃ対応が難しくないか?」

彼の言う通り、これから大量の書籍が届く予定だった。彼女と同じポケモン博士に依頼したものが、わざわざジョウトからやってくる。だからホップは資料室の整理をしていたのだ。さらに言うとラリニが来たことに気づいたのも、そのおかげである。
 
少なくはない量が届くと予め先方からは連絡が来ていた。いくらソニアといえど、さすがに紙の本が詰まった段ボールを運ぶのは骨が折れる。だから人手が必要なはずだ。せめてそれを終えてから向かってもマグノリアは怒らないはずなのに、とホップは考えていた。
ソニアは彼の頭の中をもちろん読み取っている。察しが悪いのは兄弟そっくりだ、と心の中で文句をぶつけた。

「いつ届くかまだわからないし、どうしても難しかったら特急でポケジョブ頼むから大丈夫!」
 
だから行ってきなさい、とソニアは繰り返した。しかしホップは動こうとせず、奥にいるラリニもやはりタイミングを誤ってしまった、と顔を青くしている。これでは先にラリニが帰ると言い出しかねない。ソニアとしては、それだけは絶対に避けたかった。この兄弟たちには、しっかり言葉にしないと伝わらないのだろう。

ソニアはホップに屈むよう手で招く。素直に従った彼を見て、「昔は自分が腰を折っていたのに」と懐かしい気持ちになると同時に「兄よりも大きくなるなんて」となんとも言えない気持ちがわきあがる。声のボリュームを抑えて、そっと伝えた。

「ここで決めなきゃ、後悔するよ。行っておいで、ホップ」
「!」
「いい返事、もらえるといいね」
 
ほら! とソニアは盛大に助手の背中を叩いた。そしてラリニへ「ホップ、ずっと資料室を片付けてくれていたから休憩に連れ出してくれない?」とウインクを飛ばした。しかしラリニは首を横に振る。

「あの、お忙しいようなので出直して……」
「本当に本当に大丈夫! ほら、ホップ!」
「あ、ああ……!」
 
ホップは意を決してラリニの手を取った。急に訪れた彼の体温にラリニの肩が跳ねる。平均よりもその高い体温に、彼女の意識が集中していった。ホップもまたどぎまぎと震える声を落とす。

「一緒に行ってほしいんだぞ……」
「う、うん……」
 
手を繋いだまま、ぎこちない足取りで二人が研究所を出ていくのを見届け、一仕事終えたかのようにソニアは額を拭った。そのままソファへ座り込み、脱力する。

「はー! いい仕事した!」
 
ワンパチが同意するかのように、鳴いた。



ポケモン研究所からマグノリアとソニアの家は決して遠くない。しかし、二人の歩みはゆっくりとしたものだった。どちらがというわけではなく、自然とそうなっていた。依然として手を繋いだまま、二人は歩いていく。

「…………」
「…………」
 
無言の時間は続く。しかしそこに漂うのは気まずさではない。お互いの体温を確かめ合い、歩幅を合わせて道を往く。そのまどろみのような幸福をホップとラリニは味わっているのだ。
ブラッシータウンの坂をあがり、二番道路へ進む。そこでようやくラリニが呟いた。

「きれい……」
 
その視線の先をホップも見つめる。道路に面する水面へ太陽が反射して光っている。キラキラと輝くそこは空を溶かし込んでいるように、青く染まっていた。

「奥、行ってみないか?」
 
ふいにそんな言葉が出た。ラリニがきょとんと見つめてくるので、ホップは先を指示す。

「向こう側に岸があるんだ。途中に中州も。ダイマックスの巣穴にはラプラスがいることもあるんだぞ」
「へえ、知らなかった」
「奥のほうがきっと水も澄んでいてもっと綺麗だし、その……」
 
誰もいないかもしれない、とホップは小さな声で言う。呟きにほんの少しの恋を滲ませて。その色を過敏に察知したラリニは瞬時に顔を赤くする。そして、こくりと頷いた。
ホップは腰のボールから彼のアーマーガアを繰り出した。ガラル地方では、個人トレーナーのそらをとぶ≠ヘ少しの距離なら黙認されている。賢いアーマーガアはすぐさま、二人が乗りやすいように姿勢を落とした。

「本当はラリニのアーマーガアに乗ったほうがいいんだろうけれど……かっこ、つけさせてほしいんだぞ……」
 
ラリニは身体中の水分が沸騰するかと思った。むしろしているのかもしれない。それほどまでに、ホップからの恋を浴びてふらふらだった。
彼の誘導の元、二人はアーマーガアの背中に乗り込む。少しふらつきはしたがアーマーガアはしっかりと飛翔し、彼らを水面の中に浮かぶ陸地へと運んだ。実際、そこから見る景色は二番道路で眺めるものよりも美しかった。水が澄んでいるせいか、反射する陽光も一層と輝いている。
 
二人きり、たまに吹く風が心地いい。さざめきが、優しい音を奏でていた。たまにみずポケモンたちの泡が見えて、なんのポケモンだろうかと予想しあう甘い時間が流れる。
だからだろう。耐えきれなくなったように、ラリニが呟いた。

「……ホップ」
「うん」
「この前の告白なんだけど、返事をしていいかな」
「……もちろん、オレもラリニの気持ちを知りたい」
 
自然と身体が向き合う。首を少し上へ傾けて、ラリニはホップと視線を合わせた。ホップもまた、下を向き、ラリニを見つめる。どちらかわからない心臓の音が、耳の中で響き続けた。その中でも彼女の声がよく届く。

「私も、ホップのことが好き」
 
彼の隣にいたいと、いさせてほしいと強く思っている。もう弟にも、子供にも見られない。とっくにホップは大人であり、男の人になっていた。どきどきさせることなんてお手の物な、大人に。むしろここに抱く自身の気持ちをちゃんと理解している点で、自分よりもずっと大人だ。

「私でよければ、ホップの特別になりたい、です」
「あ、当たり前なんだぞ! オレだって、ラリニの特別になりたくて……! ずっと、ずっと……」
 
ホップはそこまで叫んで、言葉を飲み込んだ。口を手で押さえるほどまでしているので「ホップ?」と思わずラリニは彼の顔を覗き込む。

「これ以上言うと、かっこつかなくなりそうだからだめだ……」
「ふふっ、なにそれ」
「うう……」
 
ホップは呻き声をあげ、頭を抱える。そのまま耐えきれないとばかりに座り込んでしまった。顔を真っ赤にして、金色の瞳を涙で滲ませながら「もっとこう……アニキみたいにかっこよくキメるはずだったのに」と悔しそうに奥歯を噛みしめる。しかし、溢れ出る嬉しい≠ニいうオーラは抑えきれないでいるようだった。

その姿にラリニの胸が甘く締め付けられる。かわいい、なんて言ったらこの人は怒ってしまうかもしれない。それでも思わずにいられなかった。かわいい。かっこいい。好き。いろいろな感情が心の中へ混ざっていく。彼女はホップの傍らにしゃがみ、彼の乱れた前髪を指先で整えた。

「好きだよ、ホップ」
「……オレもなんだぞ」
 
そうして二人は笑いあう。誰かの特別≠ノなれる心地よさと愛おしさを噛みしめながら。


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