しくった、とラリニは遠い空を目にしながら呟いた。

身体中痛くて、身じろぎもできない。それなのに雪に触れる背中から、体温がどんどんと奪われていく。まずいことになる前に、少しでも雪の少ないところへ移動しなければいけないと理解はしている。だが息をすることさえ、彼女には負担だった。動けるわけがない。浅い呼吸を繰り返し、身体中に満ちる痛みをなんとか逃がして生きている。そんなか細い命が、今のラリニだった。
仰向けのまま、視界に移る遠い空はまだ薄暗い。肌に触れる空気は刺すように冷たく、遠くからポケモンの鳴き声が響いてくる。あの声はなんのポケモンだっけ、とブレる思考回路で考え、遠くなる意識を必死に戻していた。
ラリニが遭難してから、短く見積もっても数時間は経っている。この発端は飛行試験の最中に起きた。

大きな理由としては二つ。すなわち悪天候とポケモンたち。前者である吹雪のせいで視界不良であったことに関しては、実のところラリニを始め多くの受験者の障害にさえなっていない。なにしろ受験者の多くは吹雪をはじめ、砂嵐の天候でさえ空を飛んでいるトレーナーであるからだ。加えて、試験監督からあらかじめ注意を受けていた。
そのため、ラリニたち――全受験者の予想を超えていたものは後者の『野生ポケモンたちの縄張り争い』の一点である。実際、ポケモンたちのバトルは試験が始まってから起きていた。
 
吹雪のさなか、ラリニは問題無く飛んでいた。雪の粒が頬を叩いて煩わしかったが、それでも冷静にアーマーガアと呼吸を合わせ、空を進んでいく。その中で、ふいにポケモンの鳴き声がラリニの耳に届いたのだ。「こんな吹雪ではさすがにポケモンたちも巣穴に引きこもっているはずなのに?」という疑問が彼女の脳裏に過ぎったのも束の間に、一人の受験者の悲鳴が辺りを裂く。その受験者は近づいていた野生ポケモンに気づかず、縄張り争いのバトルに巻き込まれてしまったのだ。

「っ!」
 
そしてさらに不幸なことは重なる。その受験者はラリニの近くを飛んでいたのだ。野生ポケモンたちから攻撃され、件の受験者が乗っていたフライゴンが体勢を崩し、ラリニのアーマーガアへ勢いよくぶつかる。悲鳴を聞いてから数秒にも満たないうちに起きたアクシデント。
加えてこの視界不良。突発的な重なったそれらの事象に、いくらガラルの空を熟知していたラリニといえどすぐに対処ができなかった。たいあたり=\―それ以上にも近い衝撃を受け、ラリニとアーマーガアは地へ叩きつけられることとなる。
 
ただ幸運なことに、彼女は野生ポケモンたちの只中に落ちることはなかった。谷底ではあったが吹雪に晒されることもない。それは本当に幸運なことだ、と改めて彼女は痛感する。動けないこの状況で雪が吹き込んできていたら、あっという間に凍死してしまうから。
もちろん不幸なこともあった。受け身を取る間も無く墜落したラリニたちは、当たり前のように怪我をした。アーマーガアは翼を、ラリニは身体を大きく打ち付け、その痛みと衝撃は死を覚悟したほどだった。新雪がクッションとなり即死は免れたが、骨は数カ所折れているだろうことは間違いない事実。立ち上がることも、起き上がることも難しい現状。なにより、アーマーガアも怪我をしたのがいただけない。彼は弱々しく鳴いたあと、意識を失ってしまったのか、呼びかけにも反応しない。唯一、呼吸をしていることがわずかに確認できるだけだった。痛む身体に鞭打ってヒールボールに戻したが、早くポケモンセンターに連れて行かなければ、相棒も危ないだろう。
 
ラリニは使い果たした気力をもう一度だけ振り絞り、受験者に配られていた無線を起動する。しかし、打ち付けた際に壊れたのか、はたまた地場が乱れているのか――本部からの音を拾うことは無い。GPSが働いていることを信じるしか、今の彼女にはできなかった。
やれることはやった。あとは野となれ山となれ、だ。ラリニは大きく息を吐き出し、じくりと痛む肺を無視しながら、ぼんやりと暗い空を見つめる。自然と「このまま死ぬのだろうか」と暗い考えがじわじわと心に広がっていった。
 
遭難したことに誰か気づいてくれているのだろうか。自分の後方にはまだ受験者がいたから、墜落した瞬間を目撃しているはずだ。しかしあの吹雪では『もしかしたら』もあり得る。加えて、あのポケモンたちだ。野生ポケモンの縄張り争いはよっぽどのトレーナーでも、渦中に入るのは危険な行為である。その近くに落ちた自分を捜索するのは難しいはずだ。「吹雪が止んだら」「ポケモンたちが落ち着いたら」……救助が遅延する理由はいくらでも思いつく。それまでにラリニの体力が保つかと言われれば、怪しいところ。いや、自分はどうでもいい。せめてアーマーガアだけでも助けないといけない。
 
同時にホップのことも思い出す。今の自分よりずっと子供のころに遭難したにも関わらず、自暴自棄になることもなく、生存のため最善を尽くしていた。パニックに陥ってもおかしくないのに、会話ができるほどに冷静。本当は怖かったのかもしれないが、そんなことおくびにも出さなかった。
恋人のことを考えると、途端にラリニの心から不安が涙となって溢れる。こういうときの連絡って、いつから、誰にまでいくのだろうか。家族にはもういっている? でもホップには? 
彼には今日の試験を伝えてある。「頑張ってこいよ!」と送り出してもらった。しかし、こんなことに――死の間際にいるなんて、思いもしていないだろう。そうしたらホップは何も知らぬまま、という可能性もある。彼のことはまだ家族へ話していない。つまり、そこから連絡がいくことはまずない。そうなるとラリニと連絡が取れなくなって、すいぶんと経ってから自分が死んだこと気づくかもしれない。
 
そうしたらホップはすごく傷つくだろうな、とまた涙がこぼれた。きっと自身を責めてしまうだろう。そんなことさせたくないのに。なにもホップは悪くないのに。彼はいっぱい後悔してしまうに違いない。
明るい笑顔が似合うホップに暗い表情はさせたくない。大好きな彼に悲しい思いなんてしてほしくない。なのに、させてしまうかもしれない。自分自身に腹が立ってしかたなかった。もっとうまくやれれば、きっとこんなのことにならなかったのに。

「ごめんね、ホップ……」
 
もれる嗚咽のたびに身体が悲鳴をあげる。痛くて、仕方ない。もういいかな、と諦めに近い感情が顔を出す。そのたびにホップを思い出して、気力を奮い立たせた。死にたくない、でも疲れてしまった。寒いし、痛いし、しんどい。ラリニはどんどん心が沈んでいくのがわかった。
少しだけ、願ってもいいだろうか。心に宿るわずかな希望。今朝も行なった、毎日行なうその祈りを遠くて暗い空へ向けた。ガラルの空は広く、高く、美しい。その果て先へ、祈りを捧げる。

「またホップに会えますように……」
 
小さな呟きは雪に溶け、消える。死者をいざなうヨノワールはいつ、自分のもとへ来るのだろうか。そのときは、アーマーガアは連れて行かれないと言わないといけない。そういえば、たましいとなっても霊界に行く前に一目彼に会いたいと願えば叶えてくれるかな。
ラリニの思考は徐々に鈍る。それは身体へも反映されていく。背中に感じる冷たさも、わからなくなってきた。閉じかける瞼を必死に持ち上げるが、もうそれも疲労だけがたまっていく動作になっている。

「ホップ……」
 
最後に大切で大好きな人の名前を呟いた。届きますように、と祈りながら。

「ラリニ!」
 
ホップの声が聞こえる。空耳に違いないと、彼女は感じた。都合良く彼の声が聞こえるなんてことはない。脳が勝手に生み出した、幻影であると感じた。もしくは走馬灯の類い。でも、何度も響くから、仕方なしに閉じかけた瞼を持ち上げる。
お日様のような、金の瞳と、目が合った。

「寝るな、ラリニ! 助けにきた!」
「ほ……ぷ?」
「ああ、オレだぞ! ホップだ!」
 
正真正銘の恋人が、ホップがそこにいた。彼はラリニの傍らにしゃがみこみ、必死に彼女へ声をかけていた。近くに転がる無線機とヒールボールの中に入っているアーマーガアを見て、状況を瞬時に理解したのだろう。きゅっと唇を噛みしめる。しかし、次の瞬間にはいつものあたたかな笑みを浮かべ、ラリニへ笑いかけていた。

「間に合ってよかった。身体はひどく痛むのか?」
「すっごく、いたい」
「そうか。でも、ちょっとだけ我慢してくれ」
 
ホップは無線機とボールを拾い、自身のバッグへ丁寧にしまう。そして断りを入れつつ、ラリニの膝裏と背中へ手を回し、持ち上げた。
ラリニの視界は高くなり、ホップの顔が近くなる。すっかり大人の顔をした彼に「どうしてここが?」と掠れた声で尋ねた。横抱きにした彼女を揺らさぬように気をつけながら、自身のアーマーガアの背へ跨がるホップは「連絡を聞いて」と話し始めた。

「助けに行きたいってアニキにお願いしたんだ」



現地に着いたホップ、そしてダンデとユウリは試験監督とレスキュー隊の話を聞き、状況を把握した。
最後にやってきたフライゴンに乗る受験者がアーマーガアに乗った受験者にぶつかってしまったことを報告したところから、遭難の可能性が浮上したこと。そして時間になってもラリニが戻ってこなかったこと。彼女が墜落した正確な場所はわからないこと。完結に、そして要点を踏まえた説明を受け、ダンデが呟いた。

「場所がわからない、というのが厄介だな」
 
カンムリせつげんは広大な土地だ。いくら飛行ルートが決まっているといえど、そのルートへ真っ逆さまに落ちたとは限らない。風に流されているかもしれないし、斜面を滑落した可能性もある。

「せめてどのあたりかまで絞れたら……」
 
ユウリは件の受験者に尋ねるが、首を横に振られてしまう。視界が悪くてどこを飛んでいたかわからないし、襲ってきた野生ポケモンも判別できていない。打つ手が無かった。
絶望的な状況であることに不安を覚え、ユウリはちらりとホップに視線を移す。沈んでいないだろうか、と心配になったのだ。
しかしそれは杞憂に終わる。広げられた地図を見つめるホップの瞳に、一切の影は無かった。彼は素早く地図を読み、じっと考え、地図の一部を指さした。

「ここを重点的に探そう」
「……理由を伺っても?」
「!」
 
兄から向けられた固い口調にホップは目を丸くした。そこ込められていたのは『弟』でも『ポケモントレーナー』でもない、『ポケモンを研究する者』への敬意だった。期待と挑戦を受け取ったホップは、その場にいた全員へ向けて言葉を発する。

「ここら辺はチルタリスたちの住処だ」
「縄張り争いをしていたのはチルタリスってこと?」
 
ユウリの問いに頷く。

「まず、高度。飛行ルートに設定されている高度まで飛ぶのは、ひこうポケモンでないと難しい。加えて、この天候だ。通常のポケモンじゃ外へ出てこないんだぞ」

カンムリせつげんには寒さに強いポケモンはたくさんいる。しかし、この荒れた天気では、まずこおりタイプ以外は外に出てこないだろう。だが、こおりタイプの中にひこうポケモンはいない。モスノウでも、アーマーガアたちの高度へ到達は困難だ。

「だが、チルタリスはドラゴン・ひこうタイプ。寒さには弱いんじゃないか?」
 
レスキュー隊員の問いももっともだ。こおりタイプの技が弱点になるチルタリスにこの吹雪は点滴だろう。
ホップは肯定しつつも、否定した。それはあくまでポケモンバトルでの話である、と。

「彼らにはあのつばさがある。あれで体内の熱を逃がさないようにしているんだ」
 
だから、この寒さでも縄張り争いができる。ホップはそう言い切った。
そうしてチルタリスの住処を中心にホップの指示の元、捜索を開始した。彼の考えは当たっており、いまだに縄張り争いしていたチルタリスたちを発見する。本来、野生ポケモン同士のバトルの際には人間が近づくべきではない。気が立っているからだ。そのため今回の事件が起きたとも言える。しかし、状況が状況だ。その付近まで接近すると、案の定チルタリスたちが攻撃をしかけてきた。それをいなすのは新旧チャンピオンであるユウリとダンデ。ガラルのトップはチルタリスを傷つけることなく、うまく群れを誘導していく。
 
その間にホップとレスキュー隊は必死にラリニを捜索した。早く見つけないと危険だ、とわかっているからこそ、焦る気持ちだけが先走っていく。自身のアーマーガアと共に、ラリニのわずかな痕跡を探し続けた。
そのときである。なぜか一瞬だけ吹雪が止んだ。わずかに風も雪も、吹き荒れることがなくなった。開けた視界に、青空が映る。ホップが不思議に思ったのも束の間、遠くから声が聞こえる。
ラリニが、ホップの名を呼ぶ声が。

「アーマーガア! 向こうだ!」
 
指示を出すよりも前に、アーマーガアが翼を打った。ラリニの相棒よりは遅いかもしれないが、それでも出せる限りのスピードで谷底に一直線へ飛んでいく。

「ラリニ!」
 
そして見つけたのだ。大切で大好きな人の姿を。


ホップの体温が分け与えられるかのように抱きしめられ、ラリニは話を聞いていた。彼のアーマーガアは傷に響かないよう、静かにゆっくりと舞い上がる。近づく空に視線を移すと、吹雪はだいぶ落ち着いてきたようだ。
祈りが届いたのだと、ラリニは漠然と感じた。だからまた心の中で祈る。ガラルの空へ、広大で美しく、そして時に恐ろしい自然へ感謝を捧げた。


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