見覚えのある寝室だった。誰かが泣いているのが見える。あの背中を、すすり泣く声を私は知っている。
「マリア……マリア、戻ってきてくれ」
母が私を産んで亡くなってから三年経っていた。私は三歳になっていて、確かこの日は夜中のトイレに起きたのだ。父は三年もの間ずっと悲しみを引きずり続けている。私のせいで。
それでも三年間私のことを育ててくれた父には感謝していた。この先も父が死ぬまで私は父の愛を受け取ることができたし、幸せ者だったと思う。
「ニーナ。トイレに起きたの? 部屋に戻ろう」
五歳上の兄、ジョンが私に声をかける。兄も最後まで家族を愛した、本当にいい兄だった。今時きっとこんな兄はどこにもいない。この頃からできた人間だった。
兄が私の右手を引いた。そのとき気づいたが、左手には生まれる前から兄が買ってくれていたテディベアが握られていた。無機物のはずのそれは不思議と温もりを持っていた。
このとき私は、兄にどうして父が泣いているのかを聞こうとしていたのだ。ただ言葉が出てこなかったり、兄の横顔があまりにも悲しそうだったりしたから聞けなかった。その分私の頭の中には強くこのイメージがこびりついてしまって。
部屋にたどり着いて兄は私をベッドに寝かせてくれた。お休みのキスをして、兄は私の隣のベッドに寝そべった。やがて静かな寝息が部屋の闇を包む。
兄の叫び声で目を覚ました。自分の体を確認する。成長している。ベッドの中にいたはずの小さな体はだいぶ大きくなっていて、握りしめていたはずのテディベアは綿がはみ出し、ところどころがちぎれていた。
部屋は空き巣に入られたように荒らされていて、不思議な気配が正面にあった。徐々にはっきりとしていく目の前の気配を見て息が止まりそうになった。この記憶を私は絶対に忘れることはない。私を産んで死んだ母の成れの果てを。
そこは私の家の居間だった。自然と、目の前に浮かぶ靄らしきものは母なのだということがわかった。その下に父が気絶して倒れていた。兄は私と母の霊の間に立ちはだかり、必死で除霊しようとしている。
「お兄ちゃ……!」
この頃にはもう兄の霊能力は確立されていた。何度か父から聞かされていたが、母は強い力を持った霊能力者で兄も私もその力を少なからず遺伝されているのだと。
「ニーナ、電話しろ。今すぐ! 固定電話の壁に貼ってある番号だ!」
震える足を奮い立たせて半ば這うように居間を抜けた。廊下にある固定電話にすがりついた。壁にいつも張ってある電話番号は見すぎて覚えてしまったくらいだったが、力の入らない指が何度かボタンを押し間違えた。やっとの事でかかった電話のコールが煩わしい。
『……はい、こちら合衆国警察本部特別心霊捜査課』
「あ、あの……っ、助けて!」
感情のない厳しそうな声が聞こえた。電話をかけたはいいものの、兄はそのあとのことをなにも言ってくれなかった。実際、この時の私は今なにが起きているのかわかっていなかったから、助けてとしか言えなかった。
『どうなさいましたか?』
「あの、あの……」
『今いる場所の住所は言えますか?』
「は、はい! えっと……」
口早に住所を告げると電話の向こう側は慌ただしく動く気配があった。兄が不安だ。なんの力になれなくても今すぐ兄のそばに行きたい。
『すぐに向かいます。できるだけ安全なところに』
「あ、あのっ! 急いで、あと……助けて、ください」
居間で何かが倒れた音がした。兄のうめき声が聞こえる。助けて。できることなら、兄と父と……母を。電話の向こう側の女性は少し笑って随分と優しい声で言った。
『ええ、わかってるわ。到着するまで待っててね』
電話を切る。居間に戻ろう。決意して、足を踏み出した。たとえ助からなくても兄のそばに。廊下から居間に入ろうとしたその時、目の前が真っ白になった。
フラッシュバックするように目の前にいろんな映像が映し出された。
結婚式のようだ。祝福ムード一色のその場面の中で、父らしき人物と女性が一緒に並んでいた。
今の家の外観が見える。その前に、今とは違う車で父と女性が降り立った。マイホームを買った時だろうか。
赤ん坊が生まれた。姿を写真の中でしか見たことのない母と、父が目に涙をためながら微笑みあっている。
家の中。ゆりかごに赤ん坊が入っている。父がいないいないばあをしてあやしていた。母はキッチンでご飯を作っている。
キッチンのすぐ横のダイニング。父と母と、おそらく先程までの赤ん坊が成長して一緒にご飯を食べていた。私はこの子供を知っている。アルバムの中で見た、幼い頃の兄だ。
変わって病院の中。苦しむ母の姿が見えた。母のお腹は大きく膨らんでいて、父と兄が運ばれていく母の姿を心配そうに見ていた。
映像に亀裂が入り始める。待って、お願い、まだ消えないで。これは母の記憶だ。母が未練に思っている記憶だ。あの時、私はこの記憶を見て知ってしまったのだ。母が私を憎んでいると。私にこのフラッシュバックを見せたのは母が私に伝えるためだったと。
涙が溢れる。
ずっと寂しかった。父や兄が少し寂しそうに母の話をする姿を見るたびに。母がいない、シングルファザーとして幼い私たちを育ててくれた父の疲れた顔を見るたびに。
ずっと戻りたいと願っていた。私が生まれる前に。私なんて生まれなければよかったと何度も思った。死んだ人間が生き返らない道理など、父の姿を見ていればとうにわかっていた。父や兄が毎日願ったとて母は生き返らない。だったら時間が戻ればいいのに。幼い私の心に生まれた呪いのような感情は、気づけばロザリオの如く心臓に刻まれていた。
このフラッシュバックが完全に消えた時、居間には誰もいなかったのをよく覚えている。兄も、父も、母の霊ですらも、消えていた。少しして特別心霊捜査課の捜査官が到着したがなんの解決にもならなかった。こうして私の家族は消えた。私は十歳で孤児になった。
じゃあもしも、このフラッシュバックが消えなければ? この母の記憶の中に私が入っていけたら? 私が生まれる前の世界に、いくことができたなら?
「……ナ!」
会ったことのないママ。私があなたの命を奪ってしまった。パパ、お兄ちゃん、最愛のママを奪ってごめんなさい。私が生まれる前の世界に行こう。私はいらないから、パパとママとお兄ちゃんで幸せになって欲しいの。
ゆっくりと正面の眩い光に手を伸ばした。あの日、私の霊能力が覚醒した日、母が私に見せた彼女の記憶の断片の中に。私は戻る。私が消えれば、世界は戻る。
「……ニーナ!」
だれ?
「おい、ニーナ! 目覚ませ! ニーナ!」
ああなんだか知っている気がする、この声を。
そう思った瞬間、目の前の光が歪み始めた。黒いひずみが広がっていく。やめて、置いてかないで。三人がいるところに行きたいよ。置いてかないで、ママ。どうして私だけ置いて行ったの? 私がママを殺しちゃったから、やっぱりママは私が嫌いだから。お願い、置いてかないで。もう一人は嫌なの。
唐突に左手が熱を持った。握りしめていたボロボロのテディベアが不思議と温もりを持っている。否、熱といった方が正しい。ずっと前から握っていたような、繋がっていたような感覚だ。熱い。意識が朦朧とするほどに、熱い。誰か、誰か……、助けて。