「クオリアちゃん?」
すっかり食べ終えてしまったリンゴの芯を放り投げながら廊下を歩いていると後ろから声がかかった。どうにも久しぶりに見たような気がする都子の姿が俺を見上げていた。
「なんか久しぶりだな」
「そうだね、リンゴ食べてたの?」
食いしん坊の都子らしい着眼点だ。ああ、とつぶやいてすぐ近くのゴミ箱に芯を放り込んだ。少し残念そうな顔をした都子には気づかないふりをし、そのまま並行して歩く。
「まぁ、ちょっと色々考えてて」
「考える?」
「ん。あー……いや、よくわかんねえんだけど」
ガシガシと頭を掻く。一言では表せない感情、これまで教えてもらったことのない名前のない感情を完全に持て余していた。どうにかしたいと思いながらも、誰に相談すれば答えが見つかるのか、どうやって説明すればいいのか、分からなかった。
「相談なら乗るよ! 先輩だしね!」
両手の拳を見せてキラキラした目をこちらに向けてくる都子の表情に少しだけ苦笑する。同時に、ちょっとだけ安心した。相談、相談か。
「よくわかんねえ感情がずっとあって」
「うん」
ポツリ、と話しはじめた俺の声を、急かすことなく都子は黙って聞いていた。
「何……なんて言えばいいのかもわかんねえんだけど、ずっとこの辺がモヤモヤする」
言いながら胸のあたりをバシバシと叩いた。無駄に成長したそれは、時たま邪魔にすらなるが、それが今だった。左胸、心臓のある場所を叩くたびに揺れる。
「どうしてモヤモヤするのか、わかる?」
「……あー……」
「例えば、誰かのことが気になる、とか!」
どう? と若干のドヤ顔で聞いてくる都子の言葉へ反射的に頷いていた。誰かのことがきになる。確かにそうだ。気になる。彼女のことがすごく気になる。心配になるし、そばにいたいし、どこかに行ってしまわないか不安すら感じる。これをきっと都子は気になる、と表現しているはずだ。
「クオリアちゃん……」
胸のわだかまりが気になる、という言葉で形容できるとわかった喜びで気づかなかったが、都子は俯きながら深刻そうな声を出した。なんだ? と聞くのも怖くてゴクリと喉が鳴る。
「クオリアちゃん!」
「うわ、なんだよ」
前方に回り込み、俺の両手を都子の両手が包み込んだ。相変わらずキラキラした目をまっすぐこちらに向けていた。一種の迫力すら感じるその様子に何も言えずにいると彼女は聞き慣れない言葉を叫ぶように言った。
「恋だよ!」
「は?」
こい。コイ。KOI。その言葉の意味は知っていても、自分とはあまりにも無縁な言葉すぎて理解するのに時間がかかった。目の前で彼女が繰り広げる持論を適当に聞き流しながら、頭のなかで必死に整理する。恋。恋って、なんだ。
「そっかぁ、クオリアちゃんが恋したのかぁ、嬉しいなぁ」
「確か都子、恋人いたよな」
「え」
話の流れをぶった切って尋ねると、今まで意気揚々と話していた彼女は急にしおらしくなってしまった。顔が少し赤らんでいる。
「なんて言うんだ……どんな感じ? なんだ?」
質問の言葉すらも思い浮かばないまま、雑に投げると都子は少し考え込んでしまった。自分が聞きたいことはなんなのだろう。恋。恋人。やっぱりいくら考えてもピンとこない。気になる、はすぐわかったのに、恋は理解できない。
「えっと……まずは、一緒にいると楽しい、かな」
それならわかる。俺も彼女といるときは楽しい。楽しいから、知り合ってから毎日のように一緒にいた。当たり前のことを二人で繰り返しているのが、楽しかった。
「あとは……もっと一緒にいたい、って思うようになる」
楽しいから、もっと一緒にいたい。痛いほどわかる。特に話が弾まなくても一緒にいるのは幸せだった。隣で彼女とどうでもいい話をしながら、何か、一つのものを見ている時は永遠にこの時間が続けばいいと思った。それが平和の上に成り立っている幸せだということも、よくわかっていたから。
「他には?」
「ほ、他に? えーっとね……もっと、触りたい、かな」
ゆでダコのように赤くなった都子の顔を見て、恥ずかしいことを言わせてしまったのだと気づいた時には、少しだけつられて[D:38960]に熱が集まっていた。もっと触りたい。その感情はなくはない。時折触れる彼女の髪や肌には、少しだけ、本当に少しだけ、これもまたよくわからない何かが生まれるのだ。
「と、とにかく、恋する相手が誰なのか、今度また教えてね!」
半ば逃げるように廊下の奥へ駆けていった都子の後ろ姿は、廊下の雑踏に紛れてすぐ見えなくなった。
名のない感情
都子ちゃん(@jJSQNOnDxELEzOK)