日記帳


「時子。私の部屋に来為さい。」
本と向かい合っていた私は、父の声に溜息を殺し本を閉じた。聞かなくとも判る呼ばれた理由に、重たい足を向かわせた。向かった其の先の、身体を裂く様な部屋の空気に眩暈が起きる。座って居る父の前に、私も同様に座った。
「昼間。」
重い其の声に、項垂れる。
「在の男と、会っていたそうだな。」
兄の笑う声が、聞こえた気がした。父の溜息に、私は強張り、そんな気は無いのだが、謝罪した。
「何時もそう云って、矢張り会うな。」
刺さる視線に、私は兄を重ね、震えが来た。
「御父様。」
「黙り為さい。」
私に、彼に関しての発言は許されない。痛感する。
「私は如何やら、時子を甘やかしていた様だな。」
机に置かれた扇子を卓に叩き付け、鳴らす。私は、目を瞑った。静かに開いた襖から、隣の部屋にずっと鎮座して居た兄が現れ、頭を下げると私の横に座った。扇子を開閉させ乍ら父は兄にこう云った。
「一週間、部屋から出すな。其の間に事を進める。」
「仰せの通りに、御父様。」
父に頭を下げた兄と目が合い、ざまあみろ、そう兄が笑った気がした。私は力が抜け、足が崩れた。其れと同時に、私の人生も決まったも同じだった。放心する私を兄が抱え、部屋から出した。廊下に漂う冷たい空気は兄の様で、痛い。そして不快だった。
兄は笑い、血の気を無くす私の顎を痛い程掴んだ。
「残念だな、時子。」
「離して下さい。」
「男は何も、在の男だけでは無い。」
云われた言葉に、目が熱くなる。周りの空気は冷たいのに、自分の身体だけは熱かった。
「立派な花嫁道具を用意してやる。」
喉の奥で笑う其れに鳥肌が立ち、私は兄の手を払い除ると精一杯睨み付けた。
「私は。」
絞り出した声は、簡単に消される。其の自分の力の無さ。
「時子、御前に何が出来る。」
全く其の通りだった。
こっそり会って、会っては叱られ、其れの繰り返し。
「一週間大人しく待っていれば、此の身分は守られる。相手は、まあ多少位は落ちるが、子爵だ。若くて可愛くて、御前に御似合いだ。」
「そんな物、要りませんっ。」
張り上げた声が、廊下に響く。
「私は、私は唯、木島様を御慕いしているだけ。其れの何が。」
云った瞬間、兄の腕が硝子戸を叩いた。
「其れがいけないと云ってるんだ。」
兄の眼が直視出来ず、俯いた。
判っている。判っているのに、彼に対する思いは、止められない。
「御前は、誰だ。」
私は答える事も、顔を上げる事も、出来ずにいた。
「云えないのか。だったら云ってやろう。」
「止めて下さい。」
聞いてしまえば、痛感する、差。
「俺等は、華族だ。何故あんな士族の人間とつるまなければならない。自分の地位を落とすだけだぞ。」
「止めて、下さい。」
「御前は此の地位を守る義務があるんだ。此の家に生まれた以上、御前だけ勝手は許さんっ。」
何かに八つ当たる様に兄は言葉を続け、何も自分だけが此の家に縛られている訳では無いのだと、知っているが、其の所為で兄を恨みそうになった。
「俺だって、好きな女は居たっ。自分だけが不幸そうな顔をするなっ。」
左手に嵌る指輪を忌々しそうに睨み付けた兄は鼻を鳴らし、此の侭で済むと思うなよ、そう云った。今度こそ、兄の本気を知り、私は耳を塞ぎ座り込み、そして、泣いた。
「だったら。」
私は喚いた。
「だったら私を殺して下さいっ。好きでもない人の所に嫁ぎ、地位を守る位なら、逸そ、殺して下さい。私は御兄様の様に、割り切れませんものっ。」
其れだけ云い、私は兄を押し退け、走り出した。
兄は男だから、其の好いた女性を愛人にする事が出来た。けれど、私は違う。一生、好きでも無い男と一緒に居る。
「時子。」
叫ばれる名前に私は振り返りもせず、家を飛び出した。其れは、彼に会う為では無い。




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