日記帳


飛び出したは良いが行く当てが無い。唯、本気で家出をする気では無く、感情の侭飛び出した。夜には帰らなければいけないのだろうが、其の前に兄が私を見付けそうだ。
彷徨い、気が付けば知らない場所に来ていた。足が、痛い。私は座り込み、生えている雑草に目をやった。
菫。
此処にも、菫が、咲いていた。
一人で。
凛と。
私は膝を抱え、涙した。如何して、何故いけないのだろう。彼の身分が低いから、自分達には何の利益にもならないから、たった其れだけの陳腐な理由で、私達を苦しめる。
「木島様。」
私は呟き、鼻を啜った。ざり、と地面が擦れる音。呆気無い鬼ごっこだった。随分と歩いた気がするが、馬車には敵う訳が無い。兄の前世は屹度、犬に違い無い。鼻が良くて、主人(父)に忠実で、おまけに良く吠える。其の大半は、負け犬の遠吠えに近いが。
しかし。
「時子。」
聞こえた声に、私は目を見開いた。振り返ると、息を切らし乱れた着物姿の彼が居た。犬では無い、狼が。
「木島、様。」
私は構わず、声を上げて泣いた。
「心配したぞ。行き成り兄上が怒鳴り込んで来るから、聞けば、家を飛び出したそうじゃないか。」
私を抱き締める、強い腕。此れさえあれば、地位等要らないのに。
「でも、良かった。見付かって。」
笑う彼に、私は離れた。
「家に、差し出す御積りですか。」
彼の無言に、頬の赤い痕に、何も、信じられなくなった。
「一度帰れ。心配為さって。」
「触らないで。」
伸ばされた腕を、私は、初めて、振り払った。
「帰れ。帰れ等、何故仰られるの。私が家に戻ったら、如何なるか、貴方御存じでしょう。」
初めて、彼に荒げた声。其の声に彼は少し驚いていた。涙が止まらず、無意識に腕が上がった。そして其の侭彼の赤く腫れた頬目掛け下ろした。
「帰ってやりますとも。其れが御望みなのでしょう。」
「時、子。」
「良いですとも、喜んで他の方と結婚致しますわ。」
彼の声等全く聞かず、私は、自分でも驚く位、自分の感情を彼に吐き出していた。
「こんなに御慕い申し上げているのに、こんなに。」
「落ち着け。」
「貴方から、他の男と結婚しろと、云われる等、思っても見ませんでしたわ。御望み通り、結婚してやりますとも。」
全て吐き出し、彼に背を向け走り出した。しかし、数歩で彼の腕によって止められた。強く抱き締められる身体から、力が抜けた。
「誰が。」
震える彼の声。
「誰がそんな事を望んでいるか。」
「放して、下さい。」
「愛しているんだ。何故そんな事を望む。」
「木島様。」
強く込められる力。そして、言葉と共に、解かれた。
「今晩だ。何も持たず、窓から飛び降りろ。御前の全てを、受け止めてやる。」
耳に残る言葉。
呆けた私は、何時の間にか涙が止まり、振り返ると彼の姿は無かった。




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