大いなる野心家の最期
「親父が、倒れた?」
出国手続きの書類を書いて居た宗一は、時一から聞かされた言葉に顔を顰めた。
「たった今連絡が。」
持って居たペンは落ち、慌ただしく椅子から立ち上がった振動で書類が床に落ちた。鞄とトランクに仕舞って居た白衣を持ち、時一に馬車停留所で手続きをする様云い、受話器を取った。
「帝國医大に繋いで…番号は…」
電話機に向かった侭時一の手に金を握らし、手を振る。
「早く、何して……嗚呼。うちや。親父が倒れたわ。一寸人寄越して。」
宗一の会話を耳に残し、走って五分程先にある馬車停留所に時一は向かった。
怪しい雲行きで、今にも来そうだ。
「済みませんっ」
息を切らし云う時一の姿に、咥え煙草で車体を磨いて居た御者は煙草を落とした。
「何か…」
子供が何の用だと云わんばかりの声は、遠くで聞こえた雷の音の様に低かった。
「馬車を…至急…。速いのを…」
「坊ちゃん一人?小型?」
「二人…、此れで。」
御者の手に無理矢理置いた金。掌に感じる紙の感触に、帽子を被り直した。
「此方で、坊ちゃま。御連れ様は。」
「今来ます。行き先は木島邸。」
其の行き先に御者は眉を上げ、宗一が来るのを振り返り待つ時一を見た。其の鼻先に冷たい雫を知り、二人は空を見上げた。
「何てこった…」
地面を湿らす雨に馬は諦めた様に頭を下げ、蹄で雨跡に砂を掛けるが次から次に跡が出来た。灰色だった雲は一瞬で黒く変わり、光を蓄えた。
宗一の姿が見えた時、どん、と雷が存在を知らしめた。其の爆音に時一は耳を塞ぎ、身体を縮こませ目を瞑った。
「最悪や…」
頭から全身濡れた宗一は膨れ、濡れた身体で馬車に乗り込んだ。雷に怯える時一の頭を抱き寄せ、窓から外が見えない様にした。
「宜しいですか?」
雷にも負けない御者の声に宗一は頷き、扉が閉まった時もう一度雷が鳴った。小さく悲鳴を漏らし震え、宗一にしがみ付いた。
「鬼はんが迎えに来てはるわ。」
梅雨時期ではあるが、時期に入り雨は降るもの雷が鳴る程の豪雨は今年最初では無いかと、動き出した馬車の振動に身体を揺らした。
「鬼の最後や…。なぁ、親父…」
稲妻に照らされた宗一の顔の影は、まさに牙が突き出た鬼に見え、喉の奥で笑った様に時一は感じた。
「兄、上…」
唯でさえ雷に怯えて居た時一は、其の異様な宗一の姿に一層身を小さくした。
「怖ないよ。」
歪む宗一の顔に恐怖を覚えたが、耳に感じる宗一の早過ぎる鼓動に、其れは消えた。
影が鬼に見える程宗一が血相を変える等、時一は知らなかった。
此れが宗一の、医者としての顔と取るか、今迄木島に対して持って居た思いで歪んだのかは、時一には判別出来無かった。前者であってくれと、轟く雷に目を瞑った。
「知っておけ。」
「何を、です?」
雨と雷で消され、良く聞こえない。
「人の死というものを。」
車体が大きく揺れた。
初めて記憶する人の死。時一に母親が死んだ時の記憶は無い。無いから、死が一体どんな物なのか知らない。
其れを今正に見る事になる。酷く、怖く感じた。
「焼き付けておけ。其の目に。」
数多くの死を見てきた宗一の言葉は、雷雲の様に重く時一に伸し掛かった。
「怖い………」
時一は素直にそう云った。
「そう、死は恐怖だ。忘れるな。」
肩を掴む宗一の手が、微かに震えているのは、車体が揺れる振動だけでは無かった。
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