大いなる野心家の最期
大勢の人間、其れが肉親で無い。其れがこんなに怖いものだと時恵は知らなかった。
揺れる白衣、慌ただしい看護婦達、薬の臭いに湯気が上がる湯。其れに紛れる宗一の切羽詰まった声。
そんな光景を、時恵は夢物語に唯見ていた。
「あかん。脈が弱なってきてるわ…」
「先生、強心剤は。」
そうして、医者の姿をした宗一を見たのは、此れが初めてだった。
ゴム紐が腕に巻かれ、雫を流す注射針が木島の身体に入る。顔を歪ます父親の姿に悍ましい物でも見て居る気分に時恵はなった。
「和臣は、和臣は何してんのやっ。」
アルミトレイに注射器を投げ入れ、何度も脈を計り、計る度弱くなる脈拍に溜息を零した。
そう云われてみれば、和臣の姿が見当たらない。時恵は其処から、父親の姿から逃げる様に、和臣の姿を探した。
部屋を覗いたが居ない。何処を探しても居ない。こんな雷雨の中、出掛けるとは考えられず、ならば何処に居るのか考えたが、時恵には思い当たら無かった。
和臣を探していたのは、何も時恵だけでは無かった。雪子も、又探していた。
三日前から姿が見えないと云う。
「三日前から…?」
「ええ。あたしは、ずっと御義母様とおりますから、其処には居ないんです。」
妊婦の妻を放ったらかし、在の兄は何をして居るのか。父親が死ぬと云う時に迄居ない。勝手気儘に旅行をしたりするが、まさか其の癖が今出て居るのでは無いか、探すべき場所は全て探した時恵は疲れ、部屋に戻り和臣が居ない事を宗一に告げた。
椅子に座り、時計と木島の顔を交互に見る宗一は一瞬悲しそうに目を細め、そうか、と繋いで居た点滴を外した。
「兄上…?」
「和臣きぃへんのやったら、楽にしよや。な、親父。」
優しく云う宗一に木島は少し笑った。
「好きにしろ…」
「そ、ほんなら殺すわ。」
「もっと…、柔らかく云えんのか…。仮にも医者だろう…」
飽きれ、うんざりと息を吐く木島に宗一は顔を寄せた。
「生きたい?」
「………いや、もう、充分だ…」
充分だ、其の言葉に時恵は唇を噛んだ。
父親が死ぬと云うのに、何て穏やかなんだろうと思う自分に嫌気が差した。
息を乱し、囲まれる木島に龍太郎は細い目を向けた。
――老い耄れたブルドッグ面の。
時恵と初めて会った時の会話。本当に、其の侭だ。
椅子に座り、山の如く聳えていた在の木島の面影はもう何処にも無く、弱々しい姿は見るに堪え難かった。
「意識のある内、何かあったら云いな。」
宗一の言葉に、全員小さく息を漏らし、互いに顔を見合わせた。
「父上。」
少女の様な時一の声にうっすらと開く目が動いた。
「時、一…」
そっと笑い、時一の目の下を撫でた。自分に伸びる腕を両手で掴み、けれど笑いはしなかった。
「母上は、きっと待っていて下さいます。」
「だと良いな。」
地獄に落ちるかもしれないと、顔に掛かる包帯に触れ、唇を震わせた。
「御前が成長した姿、見たかったな。」
謝罪にも取れる言葉に漸く時一は笑い、此れが僕です、そう云った。
時一の横に立つ宗一に目を向け、又視線を動かした。誰かを探して居る様なそんな動きで、見付から無いのを知ると二人から目を外した。
「和臣は…。居ないのか…」
其の弱々しい言葉に、宗一は息を吐いた。
「居てない。」
「そうか、矢張りな。」
痛々しく鼻で笑う落胆した木島に、宗一は手を握った。暫く無言で、意を決した様な力強い声で云った。
「おおきにな。」
力強いが静かな宗一の声に木島は驚き、しっかりと宗一の顔を見た。
「何を…。御前に恨まれる事はあっても、感謝される覚えは無いぞ。」
「確かにな。」
木島が認める息子は和臣だけ、其れを昔から肌で感じて居た。何故一人だけ苗字が違うのかも、何故自分の母親だけ木島から疎まれて居るのか幼い頃は納得いかなかった。同じ妾の子なのに、和臣と自分何が違うのか宗一には判ら無かった。父親であっても他人にしか思えず、和臣の様に其の権力に縋る事もしなかった。顔を合わせても、決して笑い合う事無い親子だった。
最期の時でも互いに笑わず、宗一の着る白衣に触れた。腕を摩り、何時の間にか自分を越した息子の姿を感慨深く眺めた。
「立派になったな。…まさか、息子に最期を見て貰える何て。有難いな…」
声を出し笑う木島に、宗一は喉元を熱くした。息子も有難うも、今迄一度も聞いた事の無い言葉で、宗一は何と答えて良いか判らず俯いた。
今一度声を掛け様と薄く口を開いた時、どくんと心臓が鳴り、息が苦しくなった。其れを宗一は見逃さなかった。
「親父…」
額に汗を滲ませ、苦痛に顔を歪ませる木島は手を振り、宗一は振り向くと時恵の肩を叩いた。びくりと時恵は身体を揺らし、震える手を木島に伸ばした。
怖い。
怖くて堪らない。
そんな時恵の気持を知っているのか木島は優しく笑い掛け、躊躇う時恵の手を掴んだ。其の時恵の温もりに涙が溢れた。
「時恵…。時恵…」
繋いだ手を上げ、時恵の頬に触れた。
「儂の、宝物…。時恵…時恵…」
掌に感じる水気に木島は妻を重ねた。
「時子に、良く似ている…もっと、見せてくれ…」
「父上…」
「泣くな。泣き顔は、充分だ。笑ってくれ…」
閉じた木島の目から、涙が溢れ出、そんな木島を見て居られず嗚咽を漏らした。
其の時、高いヒールの音が廊下から響き、木島はまさかと目を見開いた。
静かに開くドアーに目を懲らし、脇目も振らず近付く姿に涙が止まった。
「一、海………」
自分を見下ろす夫人の姿に木島は仇討ちに会った人間の様な心情を持ち、時恵から手を離した。
「………死ぬのか?あんた。」
静かに吐かれた言葉。
「嬉しいだろう…?やがて死ぬ。」
鼻で笑う木島に無表情で顔を寄せた夫人の首元から光何かが流れ落ちた。頬に当たった其れに木島は視線を向け、そっと触れた。
「未だ、あったのか。」
「あんたに返そうと思って。」
「要らん。此れは御前のだ。」
「そう。」
二人がどんな顔で、何の事で会話をして居るか、夫人の身体で見えない時恵は離れた。
「あたしも、其の内行く。」
「在の世でも血生臭い生活は御免だ。暫く来るな。」
「何云ってんだ。あんたは地獄だろう。極楽であたし達三人は、あんたを見下し笑ってやるんだよ。」
「嗚呼、そう云う事か。」
納得した様に木島は笑い、霞み始めた夫人の顔に触れた。深く唇を重ね、何処にそんな力が残って居るのか夫人が離れ無い様首を押さえた。
「次会った時は、逃がさんぞ。馬鹿猫。」
「早く死ね、エロ爺。」
憎まれ口を叩く夫人の目からは涙が流れ、其れを拭った木島は背中を叩いた。誰に挨拶する事も無く、窓から吹き抜けた風の様に通り過ぎた夫人の姿。其れは颯爽とし、清々しさがあった。
ドアーが閉まる音に木島は深く息を吐き、目を瞑った。後は此の侭心臓が止まるのを待つだけだと、弱い呼吸を繰り返した。
目を閉じていても眩しく感じたが、誰かが影を作ったのか光は和らぎ、しかし目を開ける力は木島に残って居なかった。
手を覆う皮膚とは違う感触に眉間を動かし、誰が自分の手を握って居るのか木島は考えた。
「先生。私です。」
此の柔らかさは手袋かと木島は眉間から力を抜いた。
「本郷か。何だ、居たのか。」
「ずっと居ましたよ。廊下に。」
「其れは済まん。」
思い出す在の力強い目。獣の目をした龍太郎が、はっきりと瞼に映る。
「先生、目を開けて下さい。」
龍太郎の頼みに木島は力無く笑い、
「最後に見るのが、御前の顔等、嫌だ。」
そう返した。
此れはエゴだ。
自分の姿を木島に焼き付けさせたい訳では無い。もう一度、木島の在の目を、自分の此の目に龍太郎は焼き付けたいのだ。
「先生。どうか、もう一度、在の目を。私に向けた、獣の目を。」
「しつこいぞ…。御前の親父も、しつこかった…」
うんざりと息を吐き乍ら開いた目に、龍太郎は全身の毛が逆立つのを知った。身震いを起こさせる其の目に、龍太郎は手に力を込めた。
「忘れません。決して。」
「本郷。」
其の声に、後ろで待機する宗一は強張った。最期の人の其れとは、思えなかったのだ。若しかしたらと、期待さえした。
「頼むぞ、時恵を。泣かせたら許さん。」
「御意。」
「其れとな…」
一気に声色が変わり、宗一は看護婦達に準備を指示した。淡い期待は、矢張り期待でしか無かった。
「井上に伝えろ。」
手を振り、笑う。
「髪を切れと。其れと髭。汚くて見るに耐えん。」
龍太郎は声を出して笑い、頷いた。
「切ってくれるかは、判りませんが、伝えます。」
「はは…」
笑った顔を無表情にし、天井を見詰める木島。そんな木島と時計を交互に見る宗一。傍らで震える時一の肩を抱き、木島を見た侭額にキッスをした。
「時一。覚えておけ。此れが、死だ。」
柱時計の音が聞こえた。大きく響く其の音に木島は微笑み、息を吐いた。
時計が鳴ったら、一緒になろう。
「時子…」
時計の音が鳴り止むと同時に、木島の心臓も静かに止まった。
「十二時丁度。御疲れ様でした、木島宗一郎さん。安らかな眠りを。」
目から流れた涙を拭い、そっと顔に布を被せた。
「死んだ…」
宗一の言葉文句に時一が崩れ落ちた。
「終わった…」
時一の中で、此の人生が終わった事を知り、漸く知った安堵感に息を零した。
「父上…っ」
泣き喚き、木島に縋り付く時恵を直視出来ない龍太郎は唇を噛み締め、其の喚きを雷の音と共に聞いた。
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