母国情緒
波の音、潮の匂い、どれも初めての事でヴィクトリアは甲板から下を恐る恐る覗いた。船も海も知らず、初めての体験に心が踊った。
白く波打つ其れは、面白かった。
「面白いか?」
「うん。」
少しだが笑うヴィクトリアに口角を上げ、紫煙を上げる。
「半年の間に日本語は、どれ程覚えた?」
波から目を外し、黒い瞳を見る。海と同じ様にうねる髪は、自分と同じだと思った。
「コンニチハ。」
「上出来。其れから?」
「イラッシャイマセ。」
「…まあ、使わん事も無いな。」
「サヨウナラ。」
「其れは、バイバイでも良いな。」
「後は…ね…」
大きな目は波の様に動いた。
「オトータマ。」
ずるりと手摺から拓也は滑った。
「お、オトータマっ?」
「うん。…違ったかな…。オタマ…?」
「俺は味噌汁か…」
ヴィクトリアが何を云いたいかは、何と無く判る。
「オトータマではなく、御父様、だ。オ・ト・ウ・サ・マ。はい、リピート。」
「オートー、トー…」
「トー…トー…とっ。とを伸ばすからおかしいんだ。別にパパでも…、いや、駄目だ。俺には似合わない…っ」
御父様も父上も、ましてやパパ、どれも拓也には似合わず、呼ばれる自身を想像して身震い起こした。何でも良いかと諦め、笑うヴィクトリアの頭を撫でた。
「船が着けば、嫌でも日本語しか耳に入らなくなる。…頭が良ければ苦労はしないがな。」
如何だろう、と見るからに頭悪そうな顔を見た。
「其れとな。」
一生懸命、“オトウサマ”を練習するヴィクトリア。波の音が大きい。
「日本に着いたら、御前は名前が変わる。ヴィクトリアじゃない。」
「え?何?マツコ?」
「…誰だマツコって。」
笑った拓也の口から、新しい名前を貰った。
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