母国情緒
年に一度は来るが其れは拓也の付き添いで、今年の命日は案の定忘れて居た。
「済みませんね、姉さん。怒らないで下さいよ。」
大好きだった白い花を置き、真直ぐと伸びる十字架に手を合わせた。
「寂しかったでしょう。軈て、帰ってきます。」
強い風が吹き、花弁が舞う。其れを龍太郎は見送る。
「一番に、貴女に会いに来る、其れは保障します。親友の俺は、二の次です。いや、木島が先かな…」
考え、唸る。
「良いか。貴女が一番なんですから。」
笑い、名前に触れた。ひんやりと冷たい其れは、最期に触った身体を思い出す。
「早いですね。もう、十年です。子供も十歳か…」
屹度楽しかっただろうと、思い描く。
再度強い風が吹き、後ろから近付いていた足音は聞こえなかった。
「其れでは。」
名前を云おうと口を開いた時、耳に聞こえた声。
目を見開いた。
「琥珀…っ」
聞き間違える筈は無い。
親友の声と、其れの愛した女の名前を。
「御前、目茶苦茶足速いな…」
息を切らし、体力の限界だと前を走るヴィクトリアの肩を掴んだ。
「……拓也…っ」
振り返り、力の限り叫んだ。
目に映る姿。
「龍、太……」
長い髪を揺らし、目を見開く拓也。そうして、互いに一目散に掛けて行った。
「龍太…っ」
「拓也、拓也……」
「畜生、何で居るんだよ…」
「御前が帰って来る事、報告しないとだろうが、馬鹿…」
強く抱き締めた身体。
「御帰り…、待ってた…ずっと…」
「俺もだ…、会いたかった。」
懐かしい親友の体温だが、龍太郎には一つ不愉快な物があった。顔にうねうねと触る髪、気持ち悪い事此の上無かった。
「何だ、此れは…。若芽でも付けて帰って来たのか?嗚呼、土産?」
一掴みし、揺らす。
「違うわっ、御洒落ですっ」
若芽でも、頭がおかしく為った訳でも無いと喚く拓也の口を龍太郎は塞いだ。拓也の他にもう一つある視線。
大きな目を男二人に向ける少女、其の黒い目に龍太郎は身震いを起こした。
今目の前に居る男の、愛した女に良く似て居た。
二人の長い髪が、同時に揺れた。
「ほら、御挨拶。船上で散々教えただろう?」
龍太郎を見上げる頭を触り、促す。
「ハジメマシテ、コハクデス。」
揺らぐスカートを摘み、小さく会釈をする、琥珀と名を変えたヴィクトリア。其の愛らしい、からくり人形の様な姿に、身震いが治まらない。
膝を屈し、龍太郎は琥珀の顔を覗き込んだ。見れば見る程、似て居た。
「初めまして、俺は本郷龍太郎。日本へようこそ、小さな御姫様。…判らないかな?」
吊り上がった目を細め、優しく微笑む。
琥珀の名に相応しい、毛色。金色でも無く、完璧な栗色でも無く、光の加減で違う色味を表す。何色かと聞かれれば、琥珀色としか答えれない。
会話をし様にも拓也と交わす時は母国語。かと云って龍太郎が話せる訳無く、言葉の壁と不便さを知った。
「琥珀、今のは、良く来たなって、歓迎してくれたんだ。名前は龍太郎だ。云えるか?」
龍太郎と同じ様に膝を屈し、笑い伝える。
「リュ、タロ?」
小首傾げ言葉を復唱した。
「長いか?じゃあリュウタで良い。」
「リュタ…?」
難しいらしく、何度も首を傾げる。船上で“御父様”を何度も練習したが、結果は矢張り“オトータマ”に終わった。如何やら母音U、うの音が苦手らしい。
「後々教えるから、今は勘弁して呉れ。」
「構わんさ。」
笑い、靡く琥珀の柔らかい髪に龍太郎は触れた。
「…柔らかい…」
余りの柔らかさに驚き、手は勝手に動いた。嫌そうに眉を顰める琥珀の顔は判るのだが、何故か手が離れない。
「御楽しみの最中誠に恐縮ですが、変態行為は止めて頂けますかね、本郷中尉殿。」
小鼻膨らみ、眉間に皺寄せた侭笑う龍太郎に拓也は冷たい声を投げた。
「可愛い…」
「変態小父さんに変な事される前に離れ様ね。」
琥珀を抱え、「こう云う変質者を見たら逃げろ」と念押し髪の掛かる頬を触った。擽ったそうに身を捩り、笑う。
「小父さん…。俺はもう、そんな年か…」
三十過ぎればそう云われる。覚悟はして居たが嫌でも中年の道を辿る自分に愕然とした。
龍太郎が落胆する理由の判らない琥珀は龍太郎を不思議に見、そんな琥珀を龍太郎は見た。
「処で、此の子は何だ?」
日本人で無いのは確か、誰からか子守を頼まれたのか。子供好きの拓也の事だから、断りはしないと思い、琥珀も懐いて居る。
「子守か?拓也。」
口元だけ笑う拓也の其の顔。龍太郎の問いには答えず、砂利の音を響かせ墓前に立った。
「姉さん、愛してるよ。只今戻りました。」
不思議そうな琥珀の目が、拓也と墓を交互に見る。耳に入る日本語は判らないが、琥珀にはきちんと伝わった。
とても穏やかな柔らかい表情。
此の墓に、彼の大切な人が眠っている事を知る。
「琥珀。挨拶をして。君の、マミーだ。」
「マミー?」
拓也の腕から下り、墓を触る。冷たい、塊の母親。けれどとても暖かく、其れは生身の実母より暖かかった。
「マミー、コハクだよ。会えないのが残念だけど…」
「おい、待て。話が見えない。日本語で云ってくれ。」
拓也の肩を掴み、血相を変える龍太郎。会話は判らなかったが、マミーと云う単語は理解出来た。
「孤児院から引き取った。」
突然の言葉に龍太郎は混乱し、聞き間違いか、拓也に再度聞いたが答えは同じだった。
「琥珀は、俺と姉さんの子供だ。」
深い闇を持つ目。さっき見た時は気付かなかったが、出国前とは微妙に変わっている。拓也を見て来たから良く判る。生命感の無い目は鈍い光を宿り、此の目はそうだ。
昔の、姉を愛していた其の時の目。
「拓也…御前…」
ゆっくりと変化する表情。
「許してよ。」
目を瞑り、顔全部を使い笑顔を見せる拓也。
目が、笑っている。
在の時から決して笑う事の無かった目が、笑っている。
其れは琥珀も判った。
初めて会った時、笑っているのに笑っていない顔だと思った。何故そう感じるか幼い自分には判らなかったが、今理解した。
目が笑って居なかった。
「オトータマ。」
手を握り、視線を合わす。
悲しさが無い、優しい其の目。
龍太郎は俯いた。
「全く…、御前と云う男は…」
鼻で笑い、熱く為る目を我慢した。
「其の顔を、何年待ったと思って居るんだ。馬鹿。」
眉間に皺寄せ、泣きそうな顔の龍太郎に、拓也は笑った。
「今、帰ったよ。」
其の笑顔と共に、梔子の香りが、充満した。
只今、姉さん。
漸くね。
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