俗と煩悩


風に乗って来た匂いに、琥珀は振り向いた。
「御船の匂いがする。」
其れに紛れ、懐かしい匂いもする。軍艦とは違う、其の匂い。いや、軍艦なのだが、其れは此処に並ぶ物とは違っていた。
「何だろう、此の匂い。」
振り向いた先に見える、巨大な船。矢張り、如何見ても軍艦なのだ。
「異国の方が、砲撃に来たのかな。」
停泊して居るのだからそんな筈無いが、其れだったら面白いのにと薄く笑い、海に近寄る。
響く靴音。其れに琥珀は海から視線をずらした。
「加納様。」
「海で、良く御会いする。若しかして、ワタクシを探してらっしゃいます?」
何て自惚れてみる。
「今日は、違います。」
今日は、と云う事は、普段は探して居る事に為る。
揺らぐ馨の髪。
「御船の匂いが、する。」
視線の先の軍艦。此の場所から、在の匂いが香ると云うのか。
「何処の、御船だろう。とても、良い匂い。」
「良い匂い?」
「花の。そう、薔薇の匂いがする。」
船の匂いと云い、微かな匂いでも判る琥珀に、馨は薄い笑顔を浮かばせた。
「そうでしょう、在の船は、英国軍の船です。」
其の言葉に、目を開き、そっと微笑む。
「そう、英国軍の。道理で。」
揺らぐスカート。光が、髪に透ける。降り注がれる光の中で、ふわりと踵が浮いた。
瞬間、どっと悪寒が走る。
此の侭琥珀が、海に落ちそうな気がした。何も思わず、ざぶんと海に。
又ふわりと踵が浮き、前方に揺らぐのを見た馨は慌てて腕を掴み、抱き寄せた。
「加納、様?」
声に気付き、慌てて身体を離す馨。
一人で海に落ちる等、そんな筈、ある訳無いのに。
落ちる時は一緒、言葉に出した事は無いが、そう、信じた。
「失礼を…」
「ふふ。ずっと陸に居た筈ね。此れは如何な事か、全く全く。」
馨の口癖を真似、笑う。髪が顔を隠し、漆黒の目だけが浮く。
又、不安が押し寄せる。
今度は腕を広げた侭、背中から落ちそうだった。かつりとヒールが鳴った時、後ろに停泊して居た軍艦は堂々たる黒煙を上げた。鐘を響かせると、大きな音を立て足場が繋がれた。
足場に聞こえた靴音、其れに馨は目を向けた。
「マーシャル ベイリー、長旅、御疲れ様に御座居ました。」
膝を屈した馨の姿をハロルドは無表情で見下ろした。
「英国陸軍元帥ハロルド・ベイリー、只今到着した。」
懐かしい其の声に、薄い笑みを蓄え琥珀は振り向いた。
「…御船と、薔薇の匂いがするわ。」
微笑する琥珀に突き動かされ、靴の高い音が足早に響く。そうして、琥珀の身体を抱き上げた。
「ヴィクトリアっ」
すんなりと抱えられた琥珀のスカートは揺らぎ、成長した其の姿にハロルドは息を止めた。
「大きく為ったね、ヴィッキー…。嘘みたいだ。」
此れが在の小さかったヴィクトリアか、何と立派に育った事か、琥珀の口から出る言葉に、ハロルドは感慨した。
「ヘンリー。」
其れに馨は驚き、固まった。ハロルドが抱き上げた事にでは無い、琥珀が、ヘンリーと云った事にだった。
父親である拓也がハロルドと繋がって居る事は知って居たが、琥珀とも繋がって居るとは思わなかったのだ。
馨の存在等構わず、ハロルドは顔を緩ます。ハロルドにしてみれば元帥の肩書等、琥珀の前では無意味。拓也を引き合わせたヘンリーであり、元帥では無かった。
「ミスターは?」
琥珀が居ると云う事は、近くに拓也が居る筈。そう考え辺りを見渡すが、居るのは馨だけであった。
海軍の人間で無い琥珀が、何故軍港に入れるかと云うと、馨が指示を出したからである。ワタクシの御嬢さんは船が好きなのですよと。なので好き勝手出入り出来るが、琥珀は知らない。一般人が軍港に入れない事さえ知らない。船が見たいの、と一言云えば入れて貰える。だから琥珀は良く此処に居る。
琥珀さえ知らない事をハロルドは知る訳無く、拓也を探す。
「ダディは知らないよ。ヘンリーが来る事、あたしも知らなかった。居たのは偶然。」
悪戯に笑う琥珀。
「悪い子だな。」
脇腹を擽り、頬にキスをした。
「愛してるよ、ハニー。大きく為っても、可愛さは変わらないね。」
「名前が変わったのは知ってる?」
「勿論。でも、忘れちゃった。」
本当は覚えて居る、けれど気恥ずかしく呼べなかった。
「嗚呼、ハニー、其れは駄目よ。ダディが怒るよ。」
「嗚呼、ジーザス。ミスターが怒ったら怖い。」
笑う二人に絡む視線。
琥珀との再会ですっかり存在を忘れて居た。詰まらなそうな、面白くなさそうな馨の目。気付いたハロルドは暫く無言で、遊びに来た訳では無いと自分に言い聞かせ、渋々琥珀を下ろした。
「シツレイを。」
敬礼をしたハロルドに馨は薄く笑った。
「英語で結構。其の方が、楽でありましょう?」
手の甲を見せる敬礼。ハロルドは瞬きをし、ゆっくりと甲を見せた。
「此れで、宜しいかな…?」
「完璧で。」
笑う琥珀。不適な笑みが、漂った。




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