もう一つの恋愛事件
家から迎えを寄越した場合一時間弱掛かると云う事は、詰まり歩けば倍の時間要する事になる。しかし幾ら性格の悪い馨とて、愛子が居るのに徒歩では帰さない。其処は紳士道貫く海軍さん。馨の使う馬車を使わせ、御者には一切の寄り道もせず、愛子を送り届ける様念を押した。だったら始めから、家には今から帰宅する旨の連絡を入れ、其の侭馬車に乗せて帰らせれば良い話では無かったのか、と五分程して大和は、又々馨に謀られた事に気付いた。
盛大に溜息を吐く大和に愛子は申し訳無く思い、横顔を見詰めた。
掘りが深く、がっしりとした鼻、紫煙を吐く度動く顎は、愛子が想像する九州男児の顔をして居た。
「佐々木様。」
「大和で良かよ。士官なら未だしも、下士官やもん。」
「御手を患わせてしまって、本当に申し訳ありません。」
「気にすんなさ。」
ふっと視線が合い、柔らかく笑う目元には、矢張り海軍と云うべきか、品があった。
「ばってん、後数日は、馨に仕返しするけん。」
「嫌ですわ、ふふ。」
口元を隠し、少し項垂れ笑う愛子の姿は、矢張り如何見ても令嬢の姿をして居た。此れが数時間前迄、あたしを捨てただの、地獄に堕ちろだの、悪態吐いて居た愛子とは思えない。
「愛子さん、はさ。」
「愛子で構いませんわ。」
「いやいや、おいが大和で良いってゆうととは違うったい。」
極度に身分が違い過ぎる。ふと大和は、そんな人間が他にも居た事を思い出した。しかし在れは、男側が将校であり、自分は軍長。此の身分とは一体何であるのか、大和は改めて考えた。
「本当、奇麗か顔しとうよね。何か、何て云うとかいな、陶器みたい。あるやろ?薄ーい陶器。」
琥珀は可愛く、愛子は奇麗、そう大和は云った。其れに愛子は目を伏せ、少し笑った。
「あたくしは、そんな顔より、琥珀みたく、はっきりとした顔の方が好きですわ。」
「琥珀ちゃんは、在れ、はっきりし過ぎやろ。パーツ全部が、でかいやん。おい、在れは余り…。長時間見とったら、絶対疲れるって…」
「確かに、二時間が限界ですわ…。凝視なら。」
「英吉利人とやろ?判らんなあ…」
馨の事は未だに判らんと大和は、何本目かの煙草を吸い終わり、灰皿に消した。充満してしまって居る煙に今更気付き、明朝馨が乗った時を想像した。屹度残り香に悶絶し、下手したら自分は海の藻屑と化するかも知れない。そう頭では思って居るのだが、煙草に手が伸びた。
火が着き、漂う煙草の匂いに愛子は息を吐き、服の匂いを嗅いだ。
「あ、御免。そうやね、服に付くな。」
愛子の父親は、嫌煙家で有名である。そんな愛子の服に匂いを染み込ませてしまった。
「あ、いいえ。そう云う意味では。唯、不思議な匂いだな、と。」
「不思議?」
「はい。何と申しましょう、形容出来ませんわね。」
此れが男の匂いなのかと、又匂いを嗅いだ。
「味は、御座居ませんの?」
「あるよ?」
此処で愛子に吸わせても良いが、不快な味に決まって居る。水があれば少しは紛らわす事は出来るであろうが、ある筈は無い。最悪気分を悪くし兼ねないと、此れ以上愛子の興味を持たせ無い様、半分残って居る所で消した。
「愛子様。」
「はい?」
御者の声が聞こえ、馬車が止まって居る事に二人は気が付いた。一時間弱の此の時間、やけに早く過ぎた気がした。
「御足元、御気を付け下さい。」
「有難う。」
先に愛子が下り、続いて大和が下りた。
「こん侭帰って良かですよ。」
自分は送らず良いと伝え、馬車の動きを見た。そして、其の後に現れた男爵邸に、瞬きを繰り返した。
漆黒の中に、でかでかと聳える屋敷は異様で、見る者に恐怖を与える。見上げた大和は、ははあ、と間抜けな声を漏らし、愛子を見た。
「着きましたよ、愛子様。」
「ええそうね、着いてしまったわ。」
夜見る物では無いわね、と愛子さえ恐怖を覚えた。
姿が見えなくなる迄が見送り、と大和は愛子の背中を押し、家へ促した。しかし愛子の足は中々動かず、呼び鈴を押す手を其の侭大和に向けた。
「又…」
分厚い手に触れる愛子の手。
「御会い、出来ますかしら…」
自分を見上げる愛子の目に大和は苦しそうに笑った。
「会わせて、貰えんと、思うばい。」
「そう、ね。屹度そう…」
葉のさわめきに似た愛子の声。じっと紫煙が上がり、其の流れを愛子は見詰めた。
煙草が消えた時、此の思いも消えるであろうか。
愛子は疎か、大和迄もがそう思って居た。
「早く、行って下さいよ。」
訛りの無い大和の言葉に愛子の口元は震え、強く下唇を噛んだ。
「ええ。」
背を向け、呼び鈴を押そうとした愛子の手を、大和は掴んでしまった。地面に落ちた煙草から火の粉が上がり、愛子は視界から家を消した。息苦しさの中に煙草の匂いを感じ、大和の息使いを全身で感じた。初めて知った煙草の味、微かに苦味があった。
「御免…」
謝る大和に愛子は何も云えず、身体を離そうとした背中を愛子は握り締めた。
「いかんって…」
「何故…。キッスして下さったのに…」
今度は愛子からキッスをし、一度離れた大和の顔は、一層苦しそうに歪んで居た。
「如何なっても、知らんぞ…」
荒く、貪る様にキッスを繰り返し、闇には、二人が破滅へと向かう足音が響いた。何度もキッスを繰り返し、其の足音を聞いた。
「知れたら、逃げるわ…」
「おいにそげん価値は無か…」
「価値は、あたしが決めるのよ…」
腰から愛子を支え、浮いた身体を肩膝に乗せた。壁に押し付け、もう何度したか判らないキッスの後、大和から血の気が引いた。こつん、と後頭部に固い何かが当たり、愛子の小さな悲鳴を聞いた。
頭に当たった其れは、杖であった。
「失礼だが君、加納君から連絡を受けた、佐々木君かね?」
うん?、と杖を持つ、見事な髭を蓄えた男は大和に聞いた。
「御父…様………」
如何にも紳士な風貌で、其の眼光は鋭く、汚い物を見る目で大和を見て居た。
「そう、です…、男爵…。海軍指令隊軍長の、佐々木と、申します…」
「君は一体、私の娘に何をして居るのかね。」
「御嬢さんを、送りに…」
「其の割には、何かな。接吻を、して居る様に、私には見えたのだが。年と暗闇故の、気の所為であろうか。」
そうであって欲しいなと父親は眉を上げ、もう一度杖で大和の頭を突いた。
「離れて頂きたいな、佐々木軍長。即刻。」
鼠が逃げる様に愛子の前からさっと退いた大和は、視線を泳がせ、直立して居た。
「加納君は矢張り正しい。獣を一匹、即時家に帰す様。指令が来たぞ、軍長。」
「はっ、只今全隊員に伝達させて頂きます。」
「宜しい。行こうか、愛子ちゃん。」
硬直した侭敬礼し、ぎくしゃくと身体を動かした。愛子はそんな大和を見詰め、小さく手を振り、門の中に入った。
「御父様…?」
「何も云わないでくれ…。泣きそう何だよ…」
「悪い方では、御座居ませんのよ…?」
「愛子ちゃん、私は何も反対はして居ないよ。」
「御父様…っ」
「彼が、そう彼が、禁煙し、尚且将校になれば、ね。」
「嗚呼…………っ」
決して上に行きたくは無い佐々木大和。
後日、其の信念を曲げ、将校にしてくれと馨に頭を下げたのは、云う迄も無い。
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