ウェストウッド通り


煙草の煙と酒の臭いに侵された店内に、女が居る。一人で酒を飲み、グラスに口紅の色が移っている。
燃える様に赤い、色。

「イヴ、飲み過ぎだよ。」
「煩いわね…放って於いてよ…」

半分潰れ掛けのイヴはバーテンダーの心配を無視し、頭痛を消す為又酒を煽った。其の痛みを知る顔さえ、妖艶だと人は云うだろう。
雨が降り始めたのだろう、静かな店内に雨の音が微かに聞こえる。ウッドベース奏者の男が仕切りにイヴを気にしている。ジャズの音楽が、酷く癪に障る。

「煩いわよ!下手糞!」

イヴの声に演奏が止まり、生憎イヴしか客の居ない店内から音楽が消えた。
ジャズを聴くと母親を思い出す。ジャズピアニストだった母親を犯人は知ってか、母親は両手首を切断されていた。
激しくなる雨音。

「嗚呼、クソッタレ。」

ハイボールを一気に飲み干し、小さくなった氷を口の中に入れ様と大きく口を開き、底を叩いた。冷たい氷を口に入れてもイヴの熱と怒りは収まらず、肘を付きバーテンダーの顔を見た。何がそんなに面白いのか、酒を作っている時以外は、こうしてグラスを拭いている。磨かれ光を放つグラスは綺麗で、イヴは息を吐いた。

「客のグラスが空なのよ。未だ拭いてる積もり?」
「同じの飲むのかなぁって。」

先日、空になったグラスに飲み干した物と同じ物を作ったらイヴから攻撃を受けた。客の注文も受けずに何を勝手に作っているのかと。だからバーテンダーはイヴが云う迄グラスを拭いていたのだが、如何してもイヴに攻撃をされるらしい。
イヴはテーブルに落ちている雫を指先でなぞり、透明な線を描いた。

「ハイネケン。」
「…あったかな…」

冷蔵庫を開け、確認した。イングランド規制で、ホーラントの代物は余り入って来ない。確認する迄も無く、イヴが望むハイネケンは矢張り無い。イヴの雷が落ちる。顔を向けれず、バーテンダーは冷蔵庫を覗いた侭イヴに教えた。

「じゃあ、何があるのよ。」
「国産がある。」
「他は。」
「ヴィーズン。」

イヴの髪と同じ色をするジャーマン産のビール。
オクトーバーフェストという、ミュンヘン最大のビール祭りの時にしか姿を現さないビールで、良質である程強い琥珀色を持ち、アルコール度数が他のビールと比べ高い。
そんな貴重なビールが何故有るかというと、其れはバーテンダーにしか判らない。
無言という事は飲むのだろうとビンを取り出し、栓を抜いた。グラスを下げ、磨き上げられた新品同様のグラスが琥珀色の液体で満たされる。上がる気泡は、宝石の様に美しく、イヴはテーブルに顔を付け眺めた。バーテンダーは少し笑い、イヴの母親が好んで此れを飲んでいたから君の髪は同じ色なんだと、瓶を横に置いた。

「そんな訳あるか。」

本当はそうだと信じたい。生前の母親は良く、貴女の髪って私が世界一愛するビアと同じ色、と矢張り同じビールを飲み乍ら云った。母親の言葉を掻き消す様に悪態吐き、喉に通した。中々に悪くない、イヴは喉を止められず一気に飲み干した。
ハイボールとヴィーズンを交互に飲み、イヴが店に来て二時間経った。雨は止む気配がせず、帰るのが億劫だ。イヴの漏らした溜息が其れを意味すると知ったバーテンダーは、此処で寝ても良いけど倉庫で寝てねと眉を上げる。
ドアーに掛けられたカウベルが鳴る。一層酷くなったと思われる雨音も聞こえた。

「いらっしゃいませ。」

雨音と一緒に入って来たのは男で、手には傘を持っている。帽子を外した男は静かな店内に視線をやり、楽器を持った侭座っている演奏者に頷いた。

「今日は弾かない日か?」
「さっき迄は弾いてましたよ。」

皮肉たっぷりの目をイヴに向け、イヴは舌打ちをした。

「判ったわよ、弾き為さいよ。」

他に客が来たのならイヴの我侭は通用しない。雨音を静かに入れていた店内に、又ジャズが流れ始めた。ベースの低音、ピアノの高音、ドラムのリズム。不思議な事に先程はあんなに癪に障っていた音が心地良い。其れ程イヴの身体に酒が回ったのだ。
男は何故かイヴの横に座り、ヘネシーと注文するとイヴの顔を見た。人から見られる事はあってもこうも近くで見られると気味が悪い。イヴは顰めた顔で、何、と聞いた。男は煙草を咥え、火を点ける手を振った。

「いや、別に。綺麗だと思って。」

ベースの音に隠れそうな程低い男の声。良く聞き取れない所為でイヴは又しても演奏者に煩いと云った。瞬間止まる音。男は何故静かだったのか理解出来た。

「聞きたくないなら来なきゃ良いだろう。」
「此処が落ち着くの。勝手でしょう。」
「君の店じゃないだろう。俺は音を聞きに来たんだ。」

紫煙を吐き、置かれたグラスに視線も向けずグラスを持ち、イヴの顔を見た侭飲む。
緩んで居た表情が強張った。

「何だ、此れ。」
「何って、ヘネシーですよ。」
「違うよな。此の味はマーテルだ。」
「なーんだ。ばれた。」

バーテンダーは舌を出し、今度は本当に男の注文品を出した。

「気を付けて。此奴は注文と違うやつを出して、客を決めてるんだから。」
「酒の味の判らない客は嫌いでね。」

ニヤニヤと笑い、又グラスを拭く作業に戻った。口紅の取れた肉厚の唇を小指で触り乍ら、イヴは其の作業を見ていた。
演奏の準備は完璧なのに静かな店内。何の為に此処に来たか理由を無くした男はグラスを持った侭椅子から立ち、ピアノに近付いた。

「弾きます?」
「あの女が煩いって、又云うだろう。」

イヴを見て鼻で笑う。

「イヴって名前なんだけど。」
「そう。じゃあ、イヴが煩いって云うから止める。」
「弾きたきゃ弾きゃ良いじゃないのよ。ねー。」

バーテンダーに云ったが、グラスから視線を上げ鼻で笑うだけだった。

「一番嫌いな音の癖に。」

違うクラスを手に取り、然し其のグラスは三十分前に磨いて居た。

「嫌い?何でだ。」

男の声に瞬間店内の空気が暗くなった。イヴの母親は此処でピアノを弾き、演奏者は皆知っている。イヴが一番聴きたくないのは、ピアノの音なのだ。無言で暗い顔をする演奏者に男は息を吐いた。イヴは冷たい目で未だ唇を触っている。

「帰るわ。」

唇から指を離し、弾けた様にイヴは云った。椅子から降りたイヴに、傘を貸そうかとバーテンダーは云おうとしたが、口から出た言葉は、あ、だった。イヴの身体は大きく揺れ、皆揃って、あ、あ、あ、あ、間抜けな声を出した。倒れる前に男が抱き止め、イヴは笑った。

「ヒールが折れた。」
「何だって?」

男が視線を足元にやると細長いヒールが折れていた。其れが何だか面白く、イヴは笑っていた。涙を目に浮かべ乍ら。其の顔に強烈な色気を男は知った。背中に電気が走り、押し込む様に喉を動かした。

「ヒールが折れたなら、帰れないだろう。」

男の言葉にイヴは目に狂気を宿した。
自分から、こうも来てくれるとは。
本当は傘を口実に家に誘う積もりだった。
イヴは男から離れ、靴を脱ぐとゴミ箱に捨てた。

「裸足で帰るから良いわ。」

黒いスカートから覗く白い足。此の白い足が雨の中歩き、泥に塗れるのかと男は少し唇を結んだ。

「怪我するぞ。」
「構うもんか。」
「僕の靴履いて帰る?」

グラスを置いたバーテンダーは、そんな気も無いのに云った。

「嫌よ、水虫が移る。」
「はあ?持ってないよ。見る?」
「嫌よ。汚い。男は皆持ってんのよ。水虫じゃなくても、あんた見るからに足臭そうよ。」

そんな気も無いのに云ってしまった自分を心底哀れんだ。水虫も無ければ臭くも無い。グラスを拭いていたタオルで顔を覆った。其の綺麗な足を泥に塗れさせて帰れとバーテンダーはタオルを投げ付け、イヴは喉の奥で笑っていた。
イヴ、此処で酒を飲むが代金は払わない。付けになっているのかと思いきや、全くそうではない。此の店はイヴの母親が所有していた。然しイヴは所有権を破棄した為唯の客である。金を払わず、又店側が受け取らないのは、マスターが母親の男だったからだ。
あんなに酒を飲んだのに全く足元のふら付かないイヴ。一応、御気を付けてとバーテンダーは云った。

「おい、まさか本当に其れで帰るのか?」

男の声にイヴは少し振り向き、背景に豪雨を背負った。

「目の前のアパートだから大丈夫よ。見えるでしょう?」

真向かいのアパートメントに顔をやり、然し道幅は結構ある。馬車二台分といえば判り易いだろう。時間にして一分も掛からないが、其の白い足が汚れる。
男はマーテルとヘネシーの二杯分の代金をテーブルに置き、イヴの前にしゃがんだ。

「おぶってやるから、傘差して呉れ。」
「目の前よ?」
「良い事教えてやろうか。俺が来る前、店の前で酔っ払いが瓶を割ってた。」

硝子の上を歩けるのか、と男の眉が上がる。
男は勘違いしていた。イヴが男の口車に乗せられたと。本当は来た時から、男がイヴの狂気に捕まっていた。
口紅の取れた唇が、男の背中の上で、大きく歪んだ。バーテンダーは、其れを硝子の繊細さで隠した。




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