ウェストウッド通り


「部屋は何階だ。」
「八階。一番上。」

気怠く吐き捨てられた言葉に、此の階段を登るのかと吹き抜けから上を眺める男は顔を固まらせた。畳んだ傘から雫が落ち、床に水溜りを作る。

「下ろして良いわよ。」
「馬鹿云え。此処迄来て裸足で帰すか。」

此れはもう意地だ。男の靴音と傘が床に触れる音が暗いアパートメントに響く。人が住んでいると思えない程静かだが、時間も時間なので、無理も無い。二人に会話は無く、音だけが響く。五階から人の気配を知った。

「又やってる。」

其の気配とは、喧嘩をしている声だ。
男の肩に頭を乗せ、目を瞑って居たイヴは頭を起こした。

「又?」
「あそこの部屋、ゲイカップルなんだけど、何時も此の時間になると喧嘩するのよ。」

真夜中に必ず喧嘩をする。汚い言葉で罵り合い、ドアーが乱暴に開く音が聞こえたかと思うと、悲鳴に近い声で「行かないで」と叫ぶ。数分前迄は、此の世の者とは思えない悪態を吐いていたのに、だ。其のカップルの所為で五階は其のカップルしか住んで居ない。イヴは鼻で笑い、御苦労様と靴音を聞いた。
後五分もすれば「愛してるんだ」と云う。

「此の間酷かったのよ。警察迄来たの。」
「本当?」
「廊下に出て怒鳴ったり殴ったり、そんなに嫌なら別れたら良いのに。」

妙に冷めたイヴの口調に男は少し目を開いた。

「会った時から思ってたが、イヴは冷めてるな。」

背中から伝わる声の振動。

「そうね。ママが死んでから。私の心には風が吹いてるわ。昔は違ったのよ。」
猫の様に男の肩に頬を乗せた。
酒の所為で、寂しさを知る。男の背中と振動、靴音に云い様の無い母親に対する寂しさを募らせた。部屋に着く迄二分程、二人に会話は無かった。
鍵を開け、入った部屋は殺風景だった。

「其処にある靴を取って貰える?」
「此れか?」
「そう、有難う。」

椅子に座ったイヴは男から受け取った靴を履き、ヒールを鳴らした。キッチンに向かい、其処から声を出す。

「ブランデーは無いけど、ビールならあるわよ。」
「未だ飲む気か?」
「そうでもしないと、泣いちゃうもの。」

ビール瓶を口に付け、寂しそうな顔で笑うイヴ。其の視線の先に、写真がある。男は其の顔に見覚えがあった。一ヶ月程前、通り魔の被害者として写真で見た気がした。

「アンナ・オリファントか…?」

イヴから渡された瓶を口に付け、男は呟いた。

「有名なのね、ママは。」

酷く嫌な事で。
本当なら、最高のピアニストとして人々の記憶に残った筈だったのに…。
母親の夢でもあり、イヴの夢でもあった。
殺された時もそうだったが、無名のピアニストが殺害された事件等に人々の関心は無く、事件から一ヶ月経った今となっては、誰も母親の名前等覚えて居なかった。

「俺、刑事なんだ。だから知ってる。そうか、君は娘か。」
「そう、刑事なの。」

だからなんだとイヴの目が語る。刑事でなければ名前も覚えちゃ居ないだろう、と。

「犯人は、必ず神の裁きを受ける。」
「へえ…!」

男の言葉を遮る様にイヴは云い、歪んだ顔を見せた。

「幾ら神が捕まった犯人を裁いても、ママは帰って来ない。死刑になった所で、ママは二度と私の為にピアノを弾いて呉れないわ!」

二度とママには会えないのよ、そうイヴは酒を流し込んだ。
犯人は既に捕まり、今現在裁判の最中である。
犯行理由は、ピアノの音が綺麗だったから、手を切ったらずっと其れが聞けると思ったから…。
そんな下らない理由だった。
生きて居ればずっと聞けた、なのに犯人はそんな下らない理由で母親を殺し、ピアニストの命である手を切断した。

「何で、何で手を切ったのよ。」

天国で、弾けないではないか。
イヴの怒りは其処に集中した。

「ママはピアノの愛してた!こんな事って、無いわ…」
「だから、ピアノの音が嫌い、か。」

殺風景な部屋に一際目立つピアノに男は視線をやった。ピアノを覆う布に埃が溜まり、其れはまるでイヴの心の様に思えた。
俯くイヴの髪に無言で指を通し、毛先で遊ぶ。暫く遊び、冷たい男の手が首筋を撫で、イヴは視線を向けた。

「綺麗な首だな。」
「有難う。」
「ネックレスは付けないのか?」

化粧は濃く、服も上質なのを着て居るが、イヴは装飾品を一切付けて居なかった。

「そうね、ピアノを売ったら買えるかしら。ママだと思って。」

視線を合わせていたイヴは自嘲気味に笑い、筋を撫でる男の指を感じた。

「形見だろう。」
「誰も弾かないもの。貴方の云う通り、売ってネックレスでも付けるわ。」
「だったら俺が買ってやろうか。」

イヴの虚ろな目が男を捕らえ、首を振った。

「同情でそんな事しないで。私は貴方の事を知らないもの。」
「今から知れば良いだろう。」

男の冷たい親指がイヴの肉厚な唇を弄り、其の侭唇を重ねた。親指は口端を引き、イヴの唇を開け、唇と同様に厚い舌を感じた。

「ケネス・エリオット。俺の名前。」
「ケネス…」

イヴは目を閉じ、ケネスの唇に熱い息を掛けた。キスをする音が雨音に消される。抱えられベッドに向かう間も唇を重ねていた。圧し掛かるケネスの首に腕を回し、熱を篭らせていたイヴの顔は、ケネスの肩の上で冷めた目を向けていた。




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