性分故


こっちに来るなんて珍しいじゃん?と、最初は笑顔で拓也を迎え入れた琥珀だが、本題に入った時、顔は凍り付いた。横で聞いて居た馨も一瞬眉を上げる程で、拓也の予期せぬ行動に琥珀は黙り込んだ。
「琥珀、大丈夫ですか?」
「うん、多分、多分大丈…」
身体は段々と下がり、大丈夫とは云ったもの言葉の途中で椅子から滑り落ちた。
「こは…琥珀ッ」
慌てて抱え上げ様と、椅子を倒して迄琥珀の身体に腕を入れたが、脱力した身体は思いの他重く、座り込んだ。
「嗚呼、可哀相に。」
見た琥珀の顔は涙で腫れ上がって居た。泣き声だけは出すまいと必死に唇を噛み、張り付く髪と涙を馨は必死に払った。
「大丈夫、大丈夫ですよ。」
「琥珀。」
拓也の声に、我慢して居た声が声帯から搾り出された。拓也にしがみ付き、ひんひんと泣き、其れでも「行かないで」とは云わなかった。自分の一言が何れ程大きな力を持つか、拓也の持つ全ての愛情を受けて育った琥珀は十二分に判って居た。
「会える?ねぇ又会える?」
しゃくり上げる度、拓也の匂いが鼻を占領した。
「会えるさ、絶対。」
細い腕、自分は沢山抱き締めて貰った、自分一人を守る為だけには少し強過ぎる、又違う誰かを抱き締める力が残って居る。
自分にはもう必要の無い物かも知れない。
「又、誰かを、笑顔にして…」
「有難うな。」
自力では立てず、拓也から離れた琥珀は馨に支えられ乍ら座り込んだ。痛々しい姿に拓也は黙って離れ、玄関の戸が閉まる音は琥珀の心みたく鳴った。
ガラガラと、何とも不愉快な固い音だった。
「行っちゃった…」
「ええ。」
少し笑った琥珀は其の侭突っ伏し、自分自身を抱き締めた。小刻みに揺れる背中は、子犬が震えるみたく映り、馨は上から抱き締めた。
背中が、物凄く熱い。其の熱さが、拓也に対する愛情全てに思えた。
自分を慰める手を握り、何度か絡めた。そしてふっと抜けた力に琥珀は顔を上げた。
「冗談きついぜ…、兄さんよ…」
「…本気、ですよ…」
無理矢理笑った顔の真ん中にある赤い鼻を摘み、少し鼻水に触った。其の指を琥珀は拭いた、何も付かない、手で。
「返して…?」
「琥珀、いらっしゃい。」
土下座の体勢を崩し、床に座る馨に、赤ん坊を抱く様に琥珀は抱えられた。布巾を持つ指に何度もキスをし、深く息を吐くと、自分の顔を見られない様にか、琥珀を抱き締めた。
「ワタクシはね、琥珀さん。」
高い筈の体温が一気に冷めるのを覚えた。
「凄く、貴女を愛してます。」
頭に付く胸の振動、心臓はばくばく鳴って居た。
「ずっと、ワタクシは、自分を貴いものだと思っておりました、勿論、今でも変わりませんが。」
琥珀に話す気力は無く、馨も琥珀の言葉等必要では無かった。素直に自分の気持を云いたいだけ。黒い睫毛が段々と本来の色に戻るのに気付いた馨は、布巾で顔面を擦った。
白い布巾に、うっすら肌色した粉の色、頬紅の淡い色、一番にこびり付いたのは、金色の睫毛を漆黒に変える塗料だった。完全に化粧っ気無くした琥珀の顔は未だ未だ幼く、目も鼻も唇全てが赤く色付いて居た。
未だ十五歳なのに…。
馨は一本線の眉毛を高く上げると、満足したのか又抱き締めた。
「其の顔ですよ…」
胸に付けた耳に、肺から其の侭馨の声が聞こえた。
「初めて、初めて貴女を見て、自分より、愛しいモノが、判りました。」
心臓の拍動が早く為る度、馨の体温が上がっていく、琥珀はじっと、冷えていく身体に教えた。
「ワタクシはね、琥珀さん。」
目の前に見える黒い髪を琥珀は掴んだ。拓也に初めて会った時、自分の小さな手はこうして掴んだ。
「貴女の笑顔が、何よりも好きなんです。」
薄く開いた馨の口から熱い息が漏れ、何度も吐き出されるのを見た。震えを止め様と琥珀を抱き締める力は一層強く為り、押し潰された頬はべったりと濡れた。
「大丈夫、ワタクシは、大丈夫…」
己に言い聞かせる様に馨は声を搾り出した。
「貴女が居ずとも、ワタクシで居られる…、けれど…」
焼け爛れる様に熱い喉が、巨大な手で圧迫されて居る。此れが泣くと云う事なのかと、歪む床を眺めた。
「貴女は、井上さんが居ないと、貴女で居られないでしょう…?」
歪んで居た床がはっきりと輪郭を見せ、涙が落ちたのを知った。
「選んで、選んで下さい、琥珀…」
ワタクシを選ぶなら、ワタクシが握る貴女の指輪を取って、違うなら、ワタクシの指輪を取って。
琥珀が答えを出すなら、幾らでも待つ、一時間でも、一晩でも、ずっと此の体勢で居る覚悟だった。
「御船の匂いが、するわ…」
何分経ったか、永遠とも思われる長い時間だった。甘い囁きに馨の心臓は強く鳴り、琥珀の身体に回す手に指先が触れた。握り閉める指の隙間がこじ開けられ、期待に息は上がった。
「有難う、加納さん。ずっと愛してる。」
汗ばむ掌に乗る指輪をしっかり握り、馨の笑顔を見た侭指輪を滑らせた。指先に向かうに連れ、馨の眉は寄り、完全に馨の手から離れた時、彫刻の如く微動だにしない顔が人間臭く変貌した。かちりと琥珀の手の中で金属の音がした。目元を隠す馨から離れ、膝を抱える姿を琥珀は見下ろした。
「荷物は、捨てて良いよ。ダディの所に、全部あるから。」
「琥珀…」
虚ろな目の馨に、本当に此れで良いのか琥珀は最後に悩んだ。
「ねぇ、やっぱり、馨さん…」
「笑って。」
「え?」
「琥珀、笑って下さい。」
初めて見た時と同じ張り付いた笑顔、はっきりと思い出せる昔。
始めから、此の人は笑っちゃ居なかった。私と居る時でさえも。
盛り上がる頬、吊り上がる口の隙間から見える歯、見える琥珀の全てが愛しかった。
「Bye-bye.」
馨が変わらなかった同様、琥珀も変わっては居なかった。太陽みたく、向日葵みたく、琥珀は最後迄笑って居た。
「其れで、良い。其れで良いんだ、琥珀…」
静まり帰った家に、琥珀が並べたティカップが砕け散る音が響いた。




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