melancolie
最愛の姉が死んだと云う知らせを聞いた其の日の男は、何時以上に笑っていた。笑い、破壊した。
「ねえ、笑いなよ。」
男の腕は伸び、収容者の両方を痛い程掴んだ。
此処では収容者の事を“モルモット”と云う。
男は其のモルモットに笑い掛け、笑わないモルモットに腹が立ち、一層力を込めた。
「笑わないな…。薬が足りないのかな…」
男の言葉にモルモットは無理矢理笑い、涙が出た。濁る灰色の目に恐怖が溢れ、気が触れた様に声を出し、笑った。其れに触発されたのか、他のモルモット達も奇声を発し、笑う。此処に居るだけで気が触れそうだとハンスは思うが、可哀相等とは微塵も思わない。
男はふと隅にいるモルモットが気になり、手を離した。近付く靴音に、本当にモルモットの様に怯えるモルモット。其の姿に男は笑った。
「可愛いね、君。」
透明な液体の入る注射器を受け取った男はモルモットに散ら付かせた。かたかたと口を鳴らし、振り子の様に動く注射器を目で追う。
「アルツト メンゲレに聞いたらね?」
「私が、何だって?アルツト ゲーテ。」
奥から靴音と共に響いた声に、モルモット全員が金切り声を出し始め、アリアを産んだ。
ルートヴィヒ・メンゲレ、彼がもう一人の天使、通称“死の天使”と呼ばれる医師だ。
死にたくないと喚き、壁に頭を打ち付けるモルモットや、針金で自分を傷付けるモルモット迄居た。一人のモルモットはメンゲレが来たのが嬉しいのか、アルミの皿を床に叩き付けた。此のモルモットは嬉しい時、皿を床に叩き、音楽を奏でる習性がある。しかも今奏でているのは、メンゲレが最も好むアリアだ。其のモルモットにメンゲレは近付き、頭を撫でてやった。嬉しそうにモルモットは爛れた足をばたつかせ喜んだ。自分の足をそうしたのが、メンゲレとは忘れて。
メンゲレは其のモルモットから皿を優しく奪うと、細い身体を抱き上げた。爛れた所為で細胞が壊死し、微かに揺らす事は出来ても歩く事が出来ないのだ。
「さあ、いらっしゃい。愛してあげますよ。私の可愛いマドモアゼル。」
「あーう。メーゲ。」
此のモルモットを見るのは、此れが最後かと男は二人を見た。
メンゲレは、殺す人間には非常に紳士的だ。特に女には。総統閣下は其れを余り良く思ってはいない。女に甘い国は必ず衰退の道を辿る、と云った位だからだ。其の国が何処を指すか、独逸に居る人間なら誰でも知っている。
「メンゲレさん、仏蘭西人が好きだな。」
男はハンスに云った。此のモルモットは仏蘭西人だ。メンゲレは仏蘭西人の女を特に好む。理由は聞いても教えては貰えないが、総統閣下が嫌いだと云うからだと周りは推測している。総統閣下への反発では無い。嫌いだからこそ、自ら手を下す、此れは立派な忠誠だ。
閣下の為に、閣下の嫌う人種を消す。
メンゲレはそう云っている。なので強ち推測とは云えないのだ。
男の前に居るモルモットにメンゲレは足を止め、抱えていたモルモットを他の医師に渡した。メンゲレから離れたモルモットは離れたくないと泣き喚いたが、メンゲレの行動に大人しくなり、連れていかれた。
「良く…仏蘭西人にキスが出来るな…」
ハンスは顔を顰め、帽子を被り直した。メンゲレは笑い、口直しだとハンスの後頭部を押さえ、口を塞いだ。
「ううん嗚呼っ、吐きそうだっ。仏蘭西人の臭いだっ」
「はっはっはっは。何時も私を苛める報復だぁ。」
高らかにメンゲレは笑い、腫れ上がる程ハンスは口を袖で拭った。そう云えば先程、メンゲレのクッキーをハンスは無断で食べていた。怒られるよ、と忠告したが、ばれはしないと全て平らげた。何処で知ったかは知らないが其の報復だろうと男は、胃液を吐こうとするハンスを一瞥し持っていた注射器をメンゲレに渡した。
「欲しがってるんだけど、与えても?」
「んー?」
注射器の目盛りを電気に透かして見、メンゲレは唸った。
「何時も此の量だっけ。」
「Ja.最近は与える時間の感覚を短くしてる。」
メンゲレはもう一本注射器を持ち、鼻歌混じりに男に渡した。
「倍に増やして下さいなぁ。感覚は其の侭で。」
白衣が、天使の羽が羽撃き、アリアの旋律と共にメンゲレは在のモルモットの元に向かった。今日は、機嫌が良い様見受けられる。
「倍って…」
今でさえ、通常の三倍を与えている。其れの、倍。
男がモルモットに与えているのは、向精神薬トランキライザー。最初に与え始めたのは男なのだが、何時の間にかメンゲレに指示権が移っている。倍に増やせと云われたら、倍に増やすしかない。軍医長は、彼なのだから。
男は細いモルモットの腕を引くと二の腕を縛り、血管を叩いて浮き上がらせた。
「さあ、御薬の時間ですよ。夢の世界に行きましょうね。」
甘い天使の声。濁る灰色を見据えた侭モルモットは口を大きく開き、男は笑い、モルモットを見た侭針を刺した。ぶつりと、先の丸い針が無理矢理血管に入り込む音が手に伝わり、其の感覚が好きで堪らず灰色を揺らした。モルモットの茶褐色の目が大きく揺れ、少し笑うと何処か一点を見た。紐を解き、男が手を離すと床に伸びた。こんなにも早いのかと、男は医師から紙を早く渡す様に指示し、モルモットの横に座ると観察を始めた。其の顔はメンゲレ同様、笑っていた。
「メランコリィ、メランコリィ。私の可愛いmademoiselle。」
何処からか歌声が聞こえた。其れを男は口ずさんだ。
此れが、男の姉が愛した最愛の弟の、変わり果てた姿。
其の昔、男の兄が、人間の道を外れた時と、全く同じ姿だった。
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