身体に刻む絶対忠誠
時一に用事があり、部屋に向かった所部屋の前に二人が立って居た。慌てて角に身を隠し、覗く積もりは無かったが、ショコラーデと一緒に入って居た鏡を取り出した。
何故鏡を持って居るかと云うと、「此の鏡の真ん中にショコラーデを置くと、三つに見えて幸せだね」「詰まり食べたら三つ全てが一瞬で無くなるんだろう」と、総統閣下をからかった為だ。当然ルートヴィヒは追い出され、時一に夕食は何が良いか聞いて来る様命令されたので部屋に来た。
ハートの形をしたショコラーデを口に入れ、顔は出さず、手に鏡を持ち、ハンスの顔を映した。口元が良く見える事にルートヴィヒは満足し、調度の角度を決めた。
最初は二人、ハンスだけだが笑って居た。生憎時一は横顔で、ハンスに向くのもあり口元は全くと云って良い程読み取り不可能だった。なのでハンスだけに的を絞り、静かに会話を眺めた。
ひんやりとした空気に、段々と熱い息が混ざる。
時一が床に張り付いたのと、ルートヴィヒに眩暈が起きたのは一緒だった。一番恐れて居た事態に額を押さえた。静かに鏡を仕舞い、ハンスが反対側に足を向けたのを確認すると近いた。
ハンスが行った反対側から聞こえた足音に時一は怯え、誰、と聞いた。
「私だよ。」
降って来たルートヴィヒの声は、縋り付いた天使の声。天使は此処に居るじゃないかと、ルートヴィヒに手を伸ばした。
「先生…助けて……」
「いらっしゃい。部屋に入ろう。掴まって。」
足の骨は先程の熱で溶けてしまったのか時一は全く立てず、ぐにゃぐにゃとルートヴィヒに寄り掛かり、引き摺られる様に部屋に入った。
「さあ、ほら。肩に手を置いて。机に乗せるからね。座って。」
子供に接して居る様なルートヴィヒの優しい口調に時一は、モルモットになった気分だった。座らされた場所も作業机で、そうだ自分は馬鹿な子供(モルモット)だと、失笑した。
「如何したの、座り込んでたけど。」
話を覗いて居たとは云えず、時一が何かを云う迄待つが一向に口を開く気配が無い。ルートヴィヒの溜息に時一は小さく声を漏らし、けれど口は開けなかった。喉が張り付き、呼吸も上手く出来ない。息苦しく、倒れそうだった。
倒れそう…。
そうだ、此れを云おうと、時一はルートヴィヒに顔を向け、少し笑った。
「さっき、倒れたんだ。」
「だろうね、ビーカーが割れてる。」
云って破片を踏み、靴で少し纏める。
「其れで、首を強打して、頭が、痛いんだ。其れで、座ってた。」
「…成程ね。」
其れは痛いねとルートヴィヒの笑いが確認出来、安堵した。又沈黙が流れ、息苦しさも又来た。先程打った付け根が痛く、そうでもなかったのに云ってしまった所為か頭迄痛くなり始めた。何度も首を触る時一に、ルートヴィヒは少し心配になり覗いた。
「嗚呼、此れは酷い…。腫れてるね。」
「嘘…。道理で痛い筈だ。」
最悪だ、と時一は首を回すが本当に酷いのか思う様に回らない。何もかも上手くいかない。状況は、最悪だった。
妻にクラウスとの関係が知れた事をルートヴィヒに云うべきか、無言で顔を向けた。
何か云いたそうに唇を結ぶ。包帯の奥にある其の目は、泣いているのだろうなとルートヴィヒは思い、無言で頭を引き寄せ、額同士を付けた。
同性愛者を死ぬ程嫌うルートヴィヒからそんな事をされた時一は驚き、短い呼吸を繰り返した。
「可哀相に…」
モルモット達が嫌う天使の声は優しく、此れが本当にルートヴィヒの声なのかも疑わしい。最初に声を掛けられた時、声を掛けたのは“死の天使"だった。なのに、今自分に触れ、自分を哀れんでいるのは時一の知らない“人間”だった。
「本当に…可哀相に…。トキイツ……」
呼ばれた名前に喉が熱くなった。涙も、目も熱くはならないが、時一は確かに泣いていた。
単純だが、心が、心で泣いていた。
「ルート…ヴィヒ…」
「可哀相に…。こんなになって迄…誓ったのに…。容易く御前を裏切ったね…」
頬に落ちたルートヴィヒの涙に、泣かないで、そう云った。此の国では決して口に出せない言葉をルートヴィヒは繰り返し、けれど其れは時一に云っている物では無い。天使で居る為の自分に云い聞かせる言葉。
こんなに尽くしているのに、愛しているのに。なのに此の国はそういう人間を裏切る。私も何時か捨てられる。
何度も繰り返し、時一を思い、泣いた。
貴方が捨てられる事は無いと時一は首を振り、僕は日本人だったから、そう繋ぐ。
「其の理由なら、ユートも裏切られるね。」
時一より随分若い侑徒。在の希望に輝く目は久し方で、そんな青年を、又一人闇の中に引き摺り込むのかと思うと、悲しくなった。
「違う。裏切られたのは、僕だけ。寧ろ、目が見えなくなったのは、本望かもしれない。」
包帯を触り、鼻を擦った。
自分だけ、果たしてそうかと机に両手を置いた。
「先生だって、裏切られた。在の医者としての誇りを持つ先生が、容易く、此の軍服を着た。」
自分の軍服を鷲掴み、ルートヴィヒは悔しそうに唇を噛んだ。
モルモットを見ている宗一の目は虚ろで、自分の知って居る“憧れの先生”の目では無かった。辛いなら、治療をする軍医でも良いと提案したが、独逸が求めているのは兵士を治療する医者じゃない、そうぶっきら棒に返された。
――治療される兵士は屑だ。のこのこと敵に背を向け恥ずかしく無いのか。兵士ならば誇りを持て。死んで行け。
自分達医者は、此の国に一体何を求めているのだろうかと、偶に思う。国が自分達に求める事は判る。唯、従順な其の自分達に一体何をくれるのか、ルートヴィヒは思う。
見返りは?金?其れとも名誉?自分達が欲しい物をくれる事は無いのか。そう、モルモットを与えるだけで、結局自分達には何もくれはしない。くれるのは、裏切りだけ。
ルートヴィヒは深く息を吸い、痙攣する瞼を閉じた。
「知れたんでしょう…?タマコに。」
時一の顔が歪み、声を殺して泣いた。手の震えを止める様に何度も開閉させ、顔を覆った。
「嫌だって、云った…」
けれどルートヴィヒから返事は無い。体温から出る冷たい異様な空気に存在は判るが、全く何も云ってくれない事に不安を覚える。手を上げ、ルートヴィヒの肩を叩いた。
「僕の口を見て…。返事をして。」
「御免、何?」
「ルートヴィヒなら、出来るよね…?」
さっき迄泣いて居た時一の口元は、気持悪い程吊り上がり、似合いの笑い声を出した。きちきちと革を擦り合わせた音に似る。唯、ルートヴィヒには其の気味な音が聞こえない為、何故時一がこんなに大笑いして居るのか、等々自分迄をも破壊したのかと、天使の笑いを見た。
「総統閣下に報告する。アルツト メンゲレは証人になって。」
「………喜んで。アルツト ゲーテ。」
肉厚な唇が嬉しそうに真横に伸び、仏の顔も三度迄と背中を触った。
絶対にクラウスを、独逸を裏切ら無い為に付けられた傷。痛かった。目隠しをされ、口を塞がれ、焼ける様な痛みと熱さで刻まれた。泣き、悲鳴を出して誓う忠誠は存在しないから。
此処迄尽くした人間を、自分の感情で裏切れるクラウスに吐き気がした。
最初は自分を愛してくれない時一を殺そうとした、其の次に其の要因を殺そうとしてたが、天使を夫に持つ女は矢張り守られており出来なかった。そうして、時一の愛を一身に受けた自分の父親。珠子を殺す事も父親を殺す事も出来ないのは判っている、だから、自分を愛さない時一を裏切った。珠子に時一が嫌われてしまえば自分に気持が向いてくれる筈、そんな子供同然の考えで。
勿論、クラウスの考え通りに事が進む筈は無く、天使達の怒りを買ったに過ぎ無かった。
Empfangen Sie das Urteil des Engels...
ルートヴィヒの言葉は、聞こえる筈の時一には聞こえて居なかった。
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