身体に刻む絶対忠誠


夜中物音が聞こえ、珠子は目を覚ました。部屋の電気を点け、二階の窓から玄関先を見た。
「ロッテ…っ」
行き成り消息が判らなくなり、家に来る日になっても来なかったので其の日の夜彼女の両親に話を聞いた。
ロッテは真面目で、連絡無しに休む事等一切無かった。本人が連絡出来無い状況でも両親が連絡を入れた。其れが連絡無しに行き成り休んだものだから珠子は心配した。夫は居ない、ロッテは居ない、其の入れ代わりの様に宗一達が来たので、不安は柔らかいだがロッテは心配だった。
――朝は出たんです。伺ってませんか?
――そうすると、ロッテは帰ってないの…?
珠子もロッテの両親も不安だった。
――無断外泊なんて一度も…。先生の御宅に居るとばかり。
――でも、未だ十一時だから…
何て云っては見たが、三日もロッテの消息は判らなかった。
其れが行き成り、夜中の一時に姿を現した。珠子は慌てて、けれど物音は立てずに玄関に向かった。
「ロッテ…」
「奥様…」
頭からずた袋の様な物を被り、虚ろな目で珠子を見る。やっと見知った人間を見て安心したのか珠子の腕に倒れ込んだ。バランスを崩し、物音を立てない様にして居たが、自分を支えるだけで精一杯な珠子は床に座り込んだ。
「ロッテ…ロッテ…。心配したのよ…」
「御免為さい…」
泣き付くロッテを抱き締め、良いのよ、無事だったんだから、繰り返し、頭を撫でた。頭から薄汚い布が取れ、見えた姿に珠子は愕然とした。腰迄あったロッテの自慢の髪が無残に切り取られて居た。美容師がした、等そんな手入れは無く、本当に、唯掴んで其の侭根元から切った様に短くばらばらだった。
「何なの…、此れは…」
頭が真白になった珠子は、恐る恐る髪に触れる。自分と同じ様な赤毛で、とても愛らしく、珠子も気に入って居た。
「見ないで、下さい…」
自慢の髪を切り落とされたロッテは、兵士達に凌辱される以上の苦痛を覚え、耳を塞いだ。項垂れる其の首筋に又珠子は愕然とした。
収容所に送られた人間が刻まれる焼き印を、首の付け根にはっきりと焼き付けられて居た。
「何処に居たの…。貴女一体何処に居たの…っ」
「嫌…嫌…………っ」
耳を塞ぎ泣きじゃくるロッテを強く抱き締め、珠子は泣いた。
可哀相に、熱かったでしょう。
心の中では何度でも繰り返せたが、ロッテの深く傷付いた心に其れは云え無かった。抱き締め、宥め、一緒に泣く事しか出来ない。
頭の中に兵士達の声が繰り返し響き、首を振っては悲痛な声を漏らした。
自分一人では今のロッテを部屋に連れて行く事は無理だったが、宗一達を呼ぶ訳にもいかなかった。ロッテを此れ以上傷付ける訳にはいかない、珠子は思い、一階の物置部屋を見た。物置部屋と云っても中はがらんどうで、ソファのクッション四つとバスタオル五つ、其れとタオルケットを二枚中に投げ入れた。
毛の長い絨毯で良かったと、絨毯の上にバスタオルを敷き、クッションを並べると、二人は寝れそうだった。未だ広い方が良いだろうかと、もう三枚タオルケットを持ち出し、バスタオルの横に並べた。
「ロッテ、いらっしゃい。ほら。」
玄関に座り込むロッテを手招き、優しく誘った。此の姿では帰れないロッテはゆっくりと近付き、座る珠子の横に座った。
「横になって。服は脱ぎましょう。私のをあげるわ。」
クッションに頭を乗せ、頭を撫でる珠子の手に笑った。漸く笑みを零したロッテに珠子も笑い、手にキスをすると腰を上げた。
「奥様…?」
「身体を拭きましょう。其れとも御風呂が良い?」
「良いです。今は、眠りたいです…」
「そう、なら寝ましょう。貴女は疲れてるわ。ゆっくり休んで。」
剥き出しの額にキスをし、兵士達の感触を消す様にロッテの身体を摩った。半分開いた目で瞬きを何度も繰り返し、痙攣する手を床に叩き付ける。其の都度珠子は、良い子ね、怖くないわ、と繰り返し、ロッテが完全に目を閉じたのは明け方の三時過ぎだった。
宗一達は勝手に出て行く、珠子が朝食を作る事は無く、此の侭ロッテが目を覚ます迄一緒に寝て居ても良いが、珠子に其れは出来無かった。握り締める手が時折痙攣し、其の度額にキスをして自分の存在をロッテに知らせた。
四時になり五時になり、一睡もしなかった。こんな状態のロッテを放って寝れる訳は無く、二階から下りて来る足音を聞いた。二人に会話は無く、台所からする珈琲の匂いに欠伸が漏れた。朝食は食べないのか、向こうで食べるのか、二人は珈琲を飲んだだけで家を出た。未だ日の登らない部屋は暗く、電気を点けるとポットを火に掛けた。ロッテは何が好きだっただろうかと冷蔵庫を開けたが、禄な物が入って居ないので閉めた。ロッテが居ないと買い物も出来ない、二人が食料を買って来る等と云う思考がある筈は無く、何も入って居ない冷蔵庫を杖で素早く叩いた。
ポットから沸騰した湯が噴き出、珠子は椅子に座って珈琲を煎れた。ぶあっとフィルターの中の珈琲が膨れ、其れが面白い。面白い面白いと繰り返したが、一人分の珈琲はあっという間に煎れ終わった。
又する事が無くなった珠子は片足を揺らし、一口飲むと椅子から立ち上がった。
時刻は六時前、充分だろうとソファの近くに置いてある電話に近付いた。ソファに座り、クッションが無い事を思い出した珠子は横になり、ソファの前にあるテーブルを引き寄せて電話を掛けた。
呼び出し音が七回鳴り、娘の一大事に未だ寝てるのか畜生め、と電話を切ろうとした時受話器が外れた。
『Bernet.』
出たロッテの兄の声に珠子は卒倒しそうになった。
珠子は電話が大嫌いだ。特に此の、電話を取られた瞬間が嫌いだ。不機嫌なのか元からなのかは知らないが、何処に掛けてもぶっきら棒に苗字だけを名乗られる。亜米利加でもHello、仏蘭西でもBonjour、日本でももしもし位は云うぞ、と珠子は苗字だけを一瞬で云う其れが嫌いなのだ。
「ゲーテです。Guten Morgen.」
『は…………?』
は?、と云われてもゲーテなのだから仕様が無い。ロッテの兄は、電話の相手が何処のゲーテさんなのか判らず、ましてや電話嫌いの珠子が掛けて来た事に驚いたのだ。
『先生ですよね?ロッテが。』
「そうですけれど、本人じゃあないです。」
『夫人ですよね?』
兄は少し笑い、何です?朝早く、と欠伸をして見せた。
「落ち着いて聞いて下さい。ロッテは今家に居ます。」
『何…?』
落ち着いてと頼んだ筈だが、案の定落ち着いて話が出来る訳は無く、今直ぐ迎えに行くとさえ云った。
「黙って、黙って。黙って私の話を聞き為さい、阿呆兄貴。」
年上でましてや妹の雇い主の妻に逆らえない兄は黙り、母親に代わると受話器を乱暴に棚に置いた。其の音が一睡もして居ない耳に響き、珠子は耳を塞いだ。
『タマコ…?』
「嗚呼、奥様。珠子です。早朝から御免為さい。」
柔らかい母親の声に珠子は息を吐き、始めから母親が出てくれて居れば話は早いのにと思った。
電話機の横に置いた珈琲を一口飲み、言葉を選び乍らロッテの状況を伝えた。
「夜中よ、一時過ぎかしら。何処に居たとは云わないの、でも、酷く疲れて居るの。」
『其れで、今ロッテは。』
「寝てるわ。」
『無事なのね。』
「そう、無事なの。でも…」
珠子は言葉が詰まり、嗚咽を漏らした。三日以上娘の安否を心配し、酷く疲れて居る理由を聞いた母親は小さな悲鳴を漏らした。
「暫く家に泊めるわ。」
『…ロッテが、そうしたいなら。余程、家に帰れないと思ってるのね。』
三日も消息が不明で、其の間兵士達に好き勝手されて居た等ロッテは云えない。云えば両親から見捨てられてしまうかも知れないと云う恐怖から、又非難されるのでは無いかと云う二重の恐怖から、解放されたロッテは自宅では無く此の家に来た。
痛い程判るロッテの気持に、二人の母親は暫く泣いて居た。
『ロッテに伝えて。…愛してるわ。』
「ええ、起きたら一番に伝えるわ。勿論、私からも。」
『貴女で良かった。其れじゃあ、ロッテの事、宜しくね。』
腕を伸ばし、珠子は受話器を置いた。天井を見詰め、此れから如何すれば良いか考えた。
宗一達は近付け無い方が良いだろう、壁の国旗も、軍を思わす物は全て仕舞い込もう。でも何かが足りない。
「何見てんのよ。」
祭壇に近い形で設置された総統閣下、の横に置いてあるクラウスの写真に珠子はカップを投げ付け、息を吐いた。
流石に総統閣下には出来無かった。
愛国心がある訳では無い。総統閣下にカップを投げ付けてしまえば、其れは八つ当たりになってしまいそうだったから。
幸いカップは陶器では無かったので割れなかったが、新しく珈琲を煎れる羽目になった。
「全部、貴方の所為よ。」
棚に並ぶ写真全てを腕で薙ぎ倒し、其の侭国旗を引き剥がした。
「燃えれば良いのよ、こんな物。」
窓から裏庭に放り投げ、其の上に薙ぎ倒したクラウスの写真全てを投げて行き、そして一番最後に火を点けたマッチを投げ入れた。周りの芝生を巻き込み、国旗の赤色に炎が混ざる。一瞬で其れを灰色にし、其の隙間から半分焼けるクラウスの顔を見た。無表情で珠子を見、口元に火が近付いた時にやりと口角を上げた。余りにも馬鹿にされている様で、此の炎のみたく腹から怒りが沸いた。風は無く、灰色の煙が暗い空に昇る。そうして、珠子の怒りと共に鎮火した。
床に落ちた総統閣下の写真に“落として御免為さい”そう詫び、鼻を啜り乍ら一つ一つ奇麗に並べ直した。
珠子には判っていた。総統閣下が、どんなに優しい人間なのかを、そして、厳格さの中で見せる其の優しさに自分の父親を重ねている事を。だから、どんなに此の国が憎かろうが、其の息子が憎かろうが、珠子に写真を如何こうする事は出来なかった。
何時もは険しい顔で群衆を見ている総統閣下、当然此処に並ぶ写真もそうだ。けれどたった一枚だけ、満面の笑みで写っている写真がある。総統閣下だけではない、此の写真に写っている人間全員、満面の笑みだ。総統閣下が真ん中に座り、右後ろにはハンス、左後ろにはルートヴィヒが立ち、座る左右に珠子と未だ黒髪の時一が居る。時一は少し身を屈め寄り添って居るが、珠子は座って居る。総統閣下の腕にきちんと抱かれ、頬迄寄せ合っている。勿論其処に、クラウスの姿は無い。だから、燃やさずに済んだのだ。
此の写真を撮った時を思い出し、思い出と共に涙が溢れそうだったが我慢した。


「俺は当然真ん中だ。ハンスは右。俺の右腕だからな。」
「じゃあ私は左に行くよ。」
「…嫌味か?」
「ヨーゼフは私の前に来ると良いよ。」
「左?一寸冗談でしょう?左翼になれって?」
「なら私は必然的に右かしら?御免為さいねえ?左翼のヨーゼフさん。」
「僕は右翼なのにっ、完全なRechtsgerichtetなのにっ。酷いっ」
「煩いぞ、ヨーゼフ。タマコは此処だ、いらっしゃい。」


強く腕を掴まれ、片膝に乗せられた。
赤毛で、杖を突き、日本人で。総統閣下の掲げる、求める人種と全く正反対の自分を右側、其れも膝に乗せてくれた総統閣下。燃やせる訳は無かった。




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