崩壊するしか道が無い
一週間人が居ないだけで、こんなにも荒れるのかと、屋敷を見た雄一は肩を竦めた。庭の草が、好き勝手に伸びている。今迄の手伝いの手入れを、改めて感謝した。
門を開けると猫が飛び出して来、其れに雄一は驚いた。折はしゃがみ、手招きをする。野良の筈の其の猫は、簡単に折の腕に収まった。
「貰って良い?」
「好きにしたら良いよ。私のじゃないから。」
じゃあ貰う、と折は猫の喉を撫でた。ごろごろと鳴らし、其の声に折は嬉しそうに笑った。あの黒猫楼を猫屋敷にするのも中々に良いな、と雄一は思い、玄関を開けた。妻は未だ来ていないらしく、佐伯と自分が雇っている税理士に挨拶をした。
「其方の方は…?」
猫を腕に抱き、屋敷を見渡す折。挨拶もしないが、雄一は気にしなかった。折の人嫌いは、誰よりも知っている。
「気にするな。唯の猫だよ。」
其の言葉にだけ折は反応し、猫の鳴き声を真似た。同時に、猫も鳴く。呆れる二人の税理士。
「隣の部屋にでも、置いておいてくれ。…逃げ出さん様にな、浮雲。其れと…」
「浮島。」
猫を上げ、折は云った。
「浮島か。良い名前だ。」
「良かったねー。良い名前だって。」
「なぁーお。」
ぐるぐると猫は鳴き、佐伯に誘導された折は隣の部屋に押し込まれた。腕から猫を下ろし、少し足跡が付く。人が居なくなって一週間と聞くが、此れは軽く一ヶ月は掃除されていない。蜘蛛が、巣を作っている。
「汚いね。」
「なぁーぉ。」
雄一の話がどれ程掛かるかは知らないが、ずっと立っているのかと辟易した。
其の時だ。気の荒そうな女の声と共にヒールの音が聞こえた。
多分、ドアーの外で、立った侭話すのだろう。動く気配は無かった。折は猫と二人で、ドアーに寄り、耳を立てた。
二ヶ月振り位に見る妻の顔。其れがこんなに腹立たしい等。
雄一は一息吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「俺の全財産を使い果たした気分は如何だ?玲子。」
何時もと違う雄一の口調に、折は猫を見た。
「怒ってる。」
猫に伝え、又耳を寄せた。
雄一の言葉に妻は項垂れ、垂れた髪を耳に掛けた。
「こんな積もりじゃなかったのよ。」
「なら、どんな積りだったんだ。」
「投資に失敗したの。そしたら、其れが膨らんで、取り戻そうとしたら其れも失敗して。御免為さい。本当にこんな積もりは無かったの。」
本当に悪いと思っているのか、其の声は低く、ずっと項垂れた侭だった。
「けれど結果、資産は無くなった。勿論、俺の公爵としての地位も。借金を如何する積もりだ。」
其の言葉に妻は顔を上げ、雄一に縋った。
「御願いよ。貴方の印税で如何にかして。雄一さんの印税があれば、借金は無くなるから。」
矢張りそう来たかと雄一は頷き、税理士を見た。
「奥様、大変申し訳ないのですが、其の頼みは御受け出来ません。」
「何故…?」
税理士は一咳し、鞄から書類を取り出した。
「雄一様の印税は雄一様のものであって、神楽坂家のものではありません。此処にきちんと明記されております。神楽坂家とは一切関係ないものとする、と。奥様が為さったのは、此れは神楽坂家の借金。雄一様の印税は関係ないのです。そして、奥様が此の印税に手を御出しになった時は、一切の意見も聞かず離縁し、清人坊ちゃまの親権を雄一様に譲渡する。そう記されております。此れは、法的にきちんと受理されていますので。」
「という事です。玲子さん。離縁しても構わないのなら、印税を差し上げましょうか?」
勝ち誇った顔で云う雄一に、妻は耳鳴りと眩暈を覚えた。同時に、怒りも湧き出る。
「浮雲には、金を落とすのに…私には其れさえもしてくれない…」
浮雲の心臓が鳴った。
「当たり前でしょう。私の印税です。私が誰に使おうと構わないでしょう。玲子さんが食い尽くした資産に比べれば、私の印税なんて。」
鼻で笑った。
「御前同様、くそみたいだ。」
低く唸る雄一の声。こんな声は、二年近く一緒に居るが一度も聞いた事が無かった。
「俺は御前の借金を返す為に殴られている訳ではない。如何しても俺の印税が欲しいのなら。」
雄一はゆっくりと床を指した。
「俺に土下座をして、頼め。私に、貴方の印税を、恵んで下さい、とね。そうすれば、情けで夫婦で居てやろう。が、俺に二度と浮雲の事で口出しをするな。」
自尊心の高い奥様に其れが出来るか、と佐伯は顔を逸らし心の中で笑った。そんな事をする位なら死んだ方がましだと思うだろう。
雄一の声に、浮雲は身震いが起きた。
「公爵、格好良いね。」
猫は鳴かず、小さく頷いた。
其れに対し、当然だろうが妻は困惑し、拒否をした。
「何でそんな事をしなきゃいけないの?」
「俺の印税が欲しいんだろう?だったら、云う事を聞け。」
「意味が判らないわ。私達、夫婦でしょう?」
「夫婦、ね。」
雄一は喉の奥で笑い、額に手を付くと身を屈めて笑い出した。
「御前が私に何をしてくれた。私の金にしか目が無い分際で。」
「清人を、産んであげたじゃない…其れに、愛してた。」
「嗚呼。そうだな。でも私が気付かなかったら下ろす気で居ただろう?違うか?」
「其れは…」
妻は口篭り、でも結果は産んだから良いじゃないと開き直った。此処迄来れば、雄一の気持は決まった。矢張り、離婚するしかない。妻とは、一緒に居られない。
「佐伯。煙草持ってるか?」
「はい。」
差し出された煙草を咥え、火を吐けると、溜息混じりに紫煙を吐いた。床に灰を落とし、無言で一本吸い終わると床で消した。其の時間が酷く長く感じ、一時間程に思えた。
「もう、無理だ。別れ様、玲子。」
真直ぐ妻の目を見て云った。もう一本咥え、続ける。
「破産宣告を出せば、借金は消える。君も自由だ。清人に縛られずにね。」
「如何して…?」
「何が。」
興味無さそうに火を点けながら聞いた。
「貴方の印税で払えば、済む事じゃない…」
未だ此の女はそんな事を云うのかと、税理士は呆れた。其の言葉にだ。浮雲の堪忍袋が切れた。ドアーに付けている拳が震え、身体が熱くなってゆく。
「公爵がどんな思いで、印税を貰ってるのか…あの、くそ女…」
浮雲同様、雄一も憤慨した。
浮雲がドアーを開ける前に雄一の持っていた煙草は宙に飛び、続けて渇いた音が屋敷に響いた。
「雄一様!」
「神楽坂先生!」
慌てて雄一の身体を押さえ、叩かれた妻は呆然としていた。
「貴様!何処迄俺を愚弄すれば気が済むんだ!印税で払えば良いだと!?馬鹿にするのも大概にしろ!」
「雄一様!」
「私、何か間違ってるの…?」
「未だ云うか!?離せ!もう一度殴ってやる!此の売女風情が!良くも愛だと抜かすな!俺が拘留されている時、貴様は何をした!?迎えにも来ず、釈放も求めない!其れをしてくれたのは浮雲だけだ!俺が居ない間男と寝てたのは貴様だろう!」
雄一の気迫に座り込んだ妻は、後ろに気配を感じ慌てて振り向いた。冷たい、修羅の様な目で自分を見下ろす浮雲に妻は悲鳴を上げた。
「もう一度、云ってみろ…」
「誰…貴女…」
「今云った事…もう一度云え…」
凍り付く妻に浮雲は手を振り上げたが、其れを佐伯に止められた。
「浮雲…さんでしたか!?部外者の貴女が手を上げれば傷害になります!警察に行く事に…」
佐伯の言葉に雄一は叫んだ。
「殴れ!頼む殴ってくれ浮雲!俺が必ず助けてやるから!」
其の言葉に浮雲は佐伯を振り払い、妻の顔面に平手打ちを食らわせた。
「警察上等だ!何なら陸軍さんでも呼んで貰おうか!?」
浮雲に叩かれた頬を触り、妻は怒りで震え出し、浮雲を叩いた。自分は助けてくれない癖に、此の浮雲は助ける。此れは嫉妬だった。
「呼んでやるわよ!反国者として突き出してやるわ!仲良くぶち込まれるが良いわ!」
「嗚呼、突き出せ!公爵の気持も知らないで、容易く印税で払え何て云うな!」
「其の印税で買われてるあんなにそんな事云われたくないわよ!」
「買われない貴様よりかはましだ!」
「女郎の癖して偉そうな口聞いてんじゃ無いわよ!あたしを誰だと思ってんの!?公爵夫人よ!?」
「そうだったな。でもな、貴様は自分で身を滅ぼし其の地位は無くなったんだよ!簡単に男と寝るなんて。」
「浮雲より、品が無い。貴様は、知性も教養も無い股を開くだけの娼婦と同じだ。」
取っ組み合いをする二人に雄一は近付き、浮雲の身体を離した。冷たく見下ろす雄一の目。
「そんな汚い手で、私の浮雲に触るな。浮雲は、吉原の一等花魁だ。貴様の様な薄汚れた病気を振り撒く鼠風情の娼婦が触れて良い人間では無い。」
息を乱し、酸欠に陥った浮雲は雄一に凭れ掛かり、大きく一息吐いた。浮雲を抱え、雄一は猫を見た。
「帰るぞ。浮島。」
「なあぉ。」
雄一の後を追う猫。
「陸軍に、連絡はしないのか。玲子。」
ちろりと見、足を進めた。
「其れから、清人に折檻を繰り返していた事。私はきちんと知っていたからね。」
妻は力を無くし、床に拳を叩き付けた。陸軍に連絡する気も、生きる気力も、残っていない。
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