楼主の消えた黒猫楼
新の声に目が覚めた。入って来れば良いのに襖の向こうで話す。
猫にはきちんと餌をやれ、うん判ってる、公爵には連絡をしておいたから今夜来る、そう。
そんな会話を襖を挟んでした。猫の不安そうな目に折は新の異変を察したが、動く気になれ無かった。
其の午後、初めて真去は大門を跨いだ。此れが、俗から離れた世界。新が生きる場所。
会った時から其の暗い表情は心配だったが、其れ依りも真去は此の吉原の雰囲気に気持が向いていた。
或る楼の前で新は止まり、暖簾を潜ると番頭を驚かせた。
「何か。」
「此れを、花里姉さんに渡してくれるか?」
持っていた紙を一枚渡し、描かれた花里の姿に番頭や其の場に居た女郎達が息を詰まらせた。
「生きてるみてぇだ…」
「姉さん、奇麗だ…」
「頼んだよ。」
其れだけ新は云い、店を出た。
「新っ!金は?」
慌てて番頭に云われたが、そんな物、今の俺には必要無いと背を向けた。明らかにおかしい新の姿。声を掛ける事が出来ず、一番隅の黒猫楼に着く迄、ずっと無言だった。
初めて見た新の宝に、真去は息を吐いた。
「奇麗…」
「一度、見せてやりたいと思ってた。」
少し顔を綻ばした新の横顔に真去も笑った。其の時出て来た折。
「今日は、休みだろう。」
きちんと花魁の格好で居る折の姿。
「散歩してくる。」
「其の格好でか。」
「もう、誰も見やしないんだ。汚れたって構うもんか。」
どん、と肩がぶつかり、よろめいた折は其の侭地面に座り込んだ。
「ほら、云わんこっちゃない。」
頷いた折の目から涙が落ち、白い手は砂利を掴んだ。
「公爵…公爵…っ」
呼ぶ度砂利を掴み、穴を掘ってゆく。声を掛け、立たせる事。其の簡単な行為が新には出来無かった。したのは心配した藤波だった。
「兄はん…ほら…」
砂に汚れた手で顔を覆い、藤波に抱えられる様に折は中に入って行った。
「今のが…?」
「うん。折だよ。」
奇麗な人、と在り来りな事を真去は云った。
奇麗。
奇麗な物が、こんな汚れた世の中にあるものかと、新は無言で失笑した。
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