愛妻家の朝食
掃除にしては随分長いなと雄一は思い、此の会話を聞いた。代筆の前に掃除をして来ると雪子は云い、直ぐに終わるだろうと話の流れを考えて居たが、一時間経っても戻らぬ雪子に心配した雄一は偶然に聞いてしまった。
声を掛ける事が出来ず、考えていた話の流れを全て忘れそうな程頭の中が空になった。
「あら…」
地面に写る自分の影を見た時、豪く傾いている事に気が付いた。雅も同じで、時計を見たら三時を回る処だった。
「二時間も良く話せたな私も…。買物に行かないといけない。」
「やだっ、御免為さい…。私ったら…、二時間も立たせて…」
「いいえ、其れは構わないですよ。兄上の傍に居た時と比べれば、別何とも辛くありません。」
門の前には、掃除をした後に行く予定だったのか買物篭が置いてあった。
「御免為さいね…。此れが理由で流れたら如何しましょう…」
加納の傍に居た時の辛さは全く判らないが、妊娠中の辛さは良く知る雪子は何度も謝罪し、けれど雅は、そんな柔では在の大佐の子供は産めない、と笑って見せた。
「何でも云って下さいね。御手伝いしますから。」
「痛み入ります。」
敬礼し、笑う姿は在の時と同じだった。
雅の背中を見、何故兄妹でもこんなに違うのか不思議だった。
雅の身体も気になるが、一番気になるのは雄一だ。二時間以上も待たされて居る。怒っているだろうかと申し訳無く戻った雪子は一瞬何が起きたか判ら無かった。
「か…、神楽坂さん…っ?」
「申し訳無い…」
何が申し訳無いのか、放心した。
片腕で抱き締められ、何に対しての謝罪か、此の抱擁の意味を雪子は必死に考えた。木島が死に十六年、男に触れた事は無かった。其れよりも、木島以外の男に抱擁された事さえ、生まれて此の四十五年無かった。
「何ですかっ、貴方っ。」
丸で変態を撃退するかの様に雪子は雄一の左腕を叩いた。故意では無く、振り落とし、偶々其処に当たった。
雄一は悶絶し、雪子から離れ蹲った。
「御免為さいっ、大丈夫ですかっ?」
「いえ…悪いのは私ですから…」
「如何しましょうっ。嫌だわっ、如何しましょうっ」
狼狽える雪子に、雄一は其の侭頭を床に付けた。其処迄痛かったのか、そうだろう、そうに違いないと雪子は医者を呼んで来ると靴を鳴らした。
「行くなっ」
行き成り理由不明に怒鳴られた雪子は泣きそうになった。雪子は争い事を極端に嫌い、大声が大嫌いな性格である。
恐怖で身体が竦み、けれど負けず声を出した。
「何なの貴方っ。行き成り抱き付くわ、行き成り謝罪するわ、行き成り怒鳴るわ。怖いわっ」
「申し訳無い…、本当に申し訳無い…」
此の謝罪は、怖いと云われた事に対してであるのは間違い無い。其れ位雪子にだって判る。
「もう良いですっ。何です、気持の悪いっ。早く御仕事しましょうよっ」
気持悪い、とはっきり云われた雄一はもう一度、申し訳無い、そう云った。
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