愛妻家の朝食
雪子の煎れた珈琲を気不味そうに雄一は一口飲み、辞書を捲る雪子を上目で見た。ふぅん、だの、へえ、だの、辞書を見て感心する雪子。今迄何気無く使っていた言葉を良く知ると面白い。
一方雄一は、消え掛けている話を思い出していた。其れ迄雪子は暇で、辞書を読んでいる。
ソーサーにカップを置き、宜しいですか、と雄一に聞かれたので、雪子は原稿用紙とペンを持った。
小説の内容は恋愛物だが、雄一の書く恋愛物は肉慾と愛情が歪んだ形で絡み合い、雪子が好む恋愛小説とは程遠い。基盤が恋愛、なので官能物では無い。雄一に、性的感覚描写は出来ても性的肉体描写は出来無い。一度試した事があるが、其れは酷い物で、思春期の男が口に出す言葉其の侭だった。原稿用紙一枚無駄にしただけで終わった。
やがて其の描写に入ると云う時に雄一は言葉を止めた。
文字にするのは簡単だが、口にするのは物凄く恥ずかしく感じた。
男の肉慾と女の肉慾加減は違う。
確かに雄一の本は女からの支持が強い。しかし、読むのと書かせるのでは随分違う。雄一が声に出し、其れを聞き、一言一句文字に表す。
雪子は平気だと云ったが、雄一は自分自身を、自分の欲望を女に話す変態に思えた。
「折に、頼みます…」
初めから清人や雪子に頼まなくとも、暇で仕様の無い人間を使えば良い話だが、頼まなかったのにはきちんと理由がある。折の性格上、面倒臭い、と途中で投げ出す可能性が高いのだ。そして雄一は怒る、結果、原稿処では無くなる。
其れが目に見えているから清人に、雪子に甘えた。
性描写は清人には教育上宜しく無い。尊敬する御父様の肉慾を教える訳にはいかないのだ。けれど雪子には雄一自身が恥ずかしく、口に出せない。折に頼み、無理だったら御願いします、と原稿用紙を確認した。
自分一人だったら、後一週間で仕上がっている。締め切り迄日が無いと云うのに、気の遠くなる程の残りに溜息しか零れ無かった。
「ねえ、神楽坂さん。」
「はい。」
「長篇とか短篇ってあるでしょう?其れの違いって何?」
「枚数ですか?」
「枚数で決まる物なの?」
「そうですね、其れ以外で決める基準が無いですからね。」
「ふぅん。」
簡単に分けると、長編は三百枚以上、上限は無いが大体三百五十枚以内が好ましい。中編は百枚以上三百枚以内、短編は三十枚以上百枚以内、掌編は三十枚以内と雄一は説明した。批判文は二三枚で足りるそうだ。
「ならもう一つ。原稿料と印税って違うの?」
「全然違いますよ…」
物を知らないと雪子は云うが、知らないにも程があると雄一は呆れた。
「印税と云うのは。」
雄一は自分の本を一冊手にし、テーブルに載せた。
「本には値段があります。其れと同時に著作権という物も。」
「ええそうね。」
「其の値段と印刷部数、若しくは実売部数を掛けた一定割合の値段が出版社から著者、詰まり私に支払われます。此れが印税です。残りは、此の本の権利を持った出版社側が、此の本の権利を保持する為に貰います。私が印税を貰う代わりに、私の著作物を出版社側に譲渡した形になります。…判ります?」
「判りました。流石先生、説明が明確です。」
感情を余り出さない雪子にしては驚く程、感情篭る声を出した。
「原稿料は?」
「原稿料と云うは、出版社側が書いてくれと頼む時に支払う物です。」
「…同じじゃないの?」
「ええとですね。私が、誰にも頼まれず悠々と書いた小説を出版社側に持って行くと、発生するのは印税だけです。しかし、出版社側が、“先生、此れだけ出します。ですから書いて下さい、御願いします”と、頭を下げに来た時にだけ原稿料は発生します。其の変わり締め切りと云う、悪魔が四六時中見張りをしてます。其れと出版社側の推敲。」
今が其れだ、と雄一は遠い目をし笑う。しかし、其れがあるから雄一は物書きとして存在している。誰かが自分の書いた物を必要としている。目に判る形だから書ける。
其れが例え、誰かを悲しませる軍事批判でも。
「此処迄来るのは大変だった?神楽坂先生。」
肘を付き笑う雪子。
母親、と迄はいかないが其れ近く年の離れた雪子の笑顔に雄一はぞくりとした。
雄一は内心を隠す様に珈琲を飲み、視界の端に映る雪子の細い指を見詰めた。
「勿論。」
「無理はしないで下さいね。貴方が倒れて悲しむのは清人君ですから。」
清人の名前に雄一は顔を上げ、しかし何も云わず部屋に向かった。
〔
*prev|6/12|
next#〕
T-ss