愛妻家の朝食
夜中、何時もの様に仕事をして居た。日付が変わったら止めると暗黙の了解になり、零時を少し回った処で雄一は声を止めた。ポットに入れて居た珈琲を互いのカップに注ぎ入れ、匂いを知った雄一は寝転がっていたベッドから起き上がった。
零時に仕事を終えても二人は直ぐには寝無かった。一時間程話し、就寝する。其れは大概仕事の事で、互いの事は話さ無かった。雪子にも雄一にも話す気は無い。雪子は元々が自分の事を話さ無い人間で、雄一は他人に詮索されるのを嫌う人間だった。
二人は思う。
偶に出会う“知り合ったからには自分の全てを知ってくれ”と云わんばかりに自分の事を話す人間、在れは一種の病気では無いのかと。別に御前の事等知りたくも無い、なのに延々と聞かされる。相手は一種の病気で、此方は一種の拷問を受けている。自分だけ自分の事を話せば良い物、何故此方の事迄聞きたい、と二人はそんな人間に出会う度辟易していた。他人に話す程ではない話でも聞かれ、適当に流すと「変な人」と影で云われる。御前の方が余程変だ、と云いたいが、云っても仕様が無いので云わない。雪子は「暗い人」、雄一は「矢張り物書きは変人」と云われる。
今日はそんな話しで盛り上がった。
「確かに私は暗いわっ、其れは認める。けど、昨日何食べた?とか聞かれても答え様が無いじゃないっ。」
何時もと変わらないと云えば、何時も何食べてるの。料亭に行ったと云えば、自分も行きたいから今度行こう。如何しろと云う。
「大体編集者っ。先生、何されてました?って、御前今、私の事何と呼んだっ?先生は先生らしく原稿用紙と逢瀬してたんですよっ」
毎日毎日原稿用紙と逢瀬してます、此れが雄一の挨拶だった。
「先生の御自宅には中々行けないんですよ、陸軍の独房ですから。…………どんな皮肉だっ」
何故編集者が他の先生方に話す。雄一は其の度、はは、と濁すしか無い。しかも、雄一が師匠と崇める人間の前でも平気で云う。そして其の師匠をも、雄一には困った物だなあ、死ぬなよ、と困らせる。
「何の権利があって御前達は私を侵害するっ。入って来るなっ、私の領土に入って来るなっ」
「神楽坂さんっ、今度此奴等を批判して下さいなっ」
「任せて下さいっ」
何を任せたら良いのか雪子には判ら無かったが、興奮し切った雪子は珈琲に垂らしたブランデーだけでは足りず、グラスを持った。
実は雪子、大の酒好きである。
夫の木島がウィスキーとチヨコレヰトが最強の組み合わせ、と云うのと同じに、雪子は珈琲とブランデーが最強の組み合わせと信じてならない。
其れで一度、夫婦喧嘩をした事がある位だ。
御前は在の味とチヨコレヰトの甘さが舌の上で混ざった時の至福感が判らないのか、貴方は在の珈琲に混ざる鼻に抜ける素晴らしい匂いが判らないのね、と下らない喧嘩をした。
麦酒は邪道だ、葡萄酒は腑抜けが飲む物だ、冷やには塩が合う、升酒最高、熱燗は焼いた梅干し、焼酎は蕎麦が一番旨い、と雪子は思って居る。此の持論を、酒好きの御向かいさんの旦那と話せば盛り上がる事間違い無いが、雪子に話す気は無い。
雪子の中で此の持論は、此の持論こそ他人に態々話す事では無い部類に入るのだ。
「大体在の馬鹿共、何なのっ」
グラスを振り乍ら喚き、其の度零れる。雄一は勿体無いと、切に思った。
「自分の事だけ話せば良いのよっ、如何せあたしは聞いて無いんだからっ。あんたが昨日何食おうが、何処に行こうが何し様があたしには関係無いのよっ。真剣に話し為さいよ、適当に相槌打ってやるからっ」
一気にグラスを空にし、新たに注ぎ入れる。最初は雪子が自分でしていたが、三回目からは雄一が瓶を持ち、グラスが空になるのを待ち構えていた。
雪子の飲みっぷりが面白くて仕様が無いのだ。あっという間に瓶は中身を無くし、雪子は其れを見ると独演会を中断し、ふらりと部屋から出、自分の部屋からブランデーを持って来た。
グラスをもう一つ持って。
中断した所為か雪子の熱は一気に冷め、雪子は椅子に、雄一はベッドに腰掛け酒を楽しんだ。
「終わりですかな?雪子女史。」
からかう雄一に雪子も笑い、時刻は一時を過ぎていた。
「御免為さい…。そろそろ、寝ましょうか…」
「いえ、私は別に構いませんよ。面白いですので。」
「嫌だわ…、もう…」
ほんのり赤くなった頬に手を添え、雪子は照れた。在れだけ飲んだのにも関わらず、頬はほんのりと染め、全く酔いを見せ無い雪子。
「雪子夫人…。酔う事はあります…?」
疑問を持つ。
雪子はグラスを運んでいた手を止め、目を丸くした。
「ありますよ。」
「……………へえ…」
窓から入る風は少し冷たく、熱い雪子の頬を撫でた。心地好く、机に肘を付き、支えた頭を揺らした。足を組み、ゆっくりとグラスを口に運ぶ雪子には女の色気がまざまざと溢れ、雄一は静かに視線を逸らした。
先妻と雪子の違いは何か、考えても答えは無かった。
「寝ましょう。」
「え…?」
「あら、嫌?」
「いえ…」
「私は嫌。」
貴方の言葉を借りるなら面白いから、と雪子は薄く目を細めた。
全身が逆立ち、手からグラスが落ちた。幸い空であったので絨毯が汚れた心配は無かった。
「良かった、空で。」
足元に落ちたグラスに雪子は手を伸ばし、重なった雄一の手は熱かった。椅子から浮いた身体は容易く引かれ、あらら、と思った時には口を塞がれて居た。
ゆっくりと口が離れ、雪子の言葉に雄一は息を吸った。
「満足?神楽坂さん。」
数日前に喚き散らした時と同じ人物とは思えない程其の声は静かで、雄一は又全身を逆立てた。ぞくぞくと震える神経に雄一は口元を歪め、いいえと答えた。
〔
*prev|9/12|
next#〕
T-ss