モラトリアム
帰りの車の中で清人は眠って仕舞った。折も眠たいのだが、清人みたく寝て仕舞っては、誰かが運んで呉れる訳でも無し、部屋迄到達出来無い。必死に睡魔と戦い、揺れる身体を起こした。
「寝ても、良いよ。」
頭にすんなりと入る雄一の声、一度こんな事があった。
車の中で、雄一の肩に頭を乗せた事。雄一は公爵と呼ばれ、折は浮雲と呼ばれて居た。本の数ヶ月前の話なのに、随分と昔に感じた。
「着いたら、起こして…」
「運んであげる。」
「自分で歩くさ…」
膝で眠る清人の頭を撫で乍ら、雪子は二人の会話を聞いた。他人の蜜事を聞いて仕舞った様なそんな感じで、何も云えなかった。
雪子は重ねて居た。
娼婦である自分と折、客である和臣と雄一を。親子揃って客に惚れた馬鹿何だなと、寝息を立てる折を見た。雄一と視線が合い、考えを見透かされる前に逸らした。けれど遅く、折の頭を固定しない空いた腕を雪子の頬に伸ばした。俯いた侭、雪子は清人だけを視界に入れた。折り曲げられた指は頬を撫で、親指は唇をなぞる。こっちを向いて呉れと云わんばかりに、指は雪子を誘った。
「雪子さん。」
「何かしら。」
「在の店は、如何でしたか?」
「ええ、素敵な御店。とっても美味しかった。」
「又、行きましょうか。」
「そうね、清人君も美味しいって云ってたし。」
「二人で、ですよ。」
信号でか車は静かに停まった。
清人の頭を撫でる手は自分の目から見ても震えて居た。心臓は見えないが、鼓動は指先で見えた。早い速度で血を流動させ、雪子の細い身体は鼓動に揺れて居た。
「神楽坂さん…」
「夫婦なのに神楽坂さんって、おかしく無いですか?」
「雄一さん、あのね。」
名前を呼ばれただけであるのに雄一の身体は甘い痺れを覚えた。指に伝わる雪子の血流、其れに触発された様に指は震えた。子供も居る、女を知らない男では無い筈なのに、初めて女人に触れた様な緊張が雄一を取り巻いた。
二人切りであれば、親指の代わりに唇を重ねて居た。息子達が居るのは、雄一に其れをさせない為の一種の防波堤。雪子の雄一に対する、のである。
「そんなに怯えないで下さいよ。」
初夜は手が治ってから、冗談で云った言葉であるが雪子はしっかりと覚えて居た。在の言葉が雪子に緊張を与えて居る事を知った雄一は其の緊張をやんわりと解く様云った。
「冗談ですから。本気にしなくて結構ですよ。」
雪子が其れを望まない以上、自分は何もしない、安心して毎晩寝て良いと続けた。然し雪子は思った。自分は其れで良いかも知れないが、未だ三十手前と云う雄一の事を考えると申し訳無い気がする。雪子だけでは無く折の一切を見る雄一に、家事だけで果たして許されるのか。自分が相手をしなければ他に囲うだろうが、其れでは清人が余りに不憫だ。雪子はそんな立場の人間達を嫌と云う程見て来た。和臣が余所に女を作ら無かったのは雪子に義理立てた訳では無く、自身がそうであり嫌な思いをして居たから。愛人囲う父親や其れ等女達、大人は良いかも知れないが子供としては余り良い思いは無い。
良ゝ把握する雪子であるから、葛藤した。
「私は…」
貴方が望むなら好きにして良い。
雪子の吐息は甘美で、言葉も又そうであった。
「挑発しないで下さいよ。」
ウツボカズラみたく甘い蜜で容易く自分を誘う雪子、翻弄される事は甘美である。
和臣もあっさりとこんな風に落ちたのか。複雑で在るそんな世界に、雄一は酔い知れた。
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