モラトリアム


完治したばかりの手は、翌日から酷使された。雪子は嗚呼は云うが、雄一にそんな度胸は無かった。男の愛はとことん保守的で臆病―――。頭では知って居たのだが、自分が其の立場に置かれ、初めて苦悩した。思春期の様な青い熱が轟々と身体を巡り、熱さに魘された。
「あた、頭が、脳みそが、茹立ちそうだ。」
原稿用紙に愛を吐き出しても熱は引かない。寧ろ酷く為る一方で、疲労ばかり覚えた。
「判る判る。」
原稿用紙に向かい独り言を云う雄一に、声は云った。雪子本人なら動揺はするもの其れ程貴女を愛して居ると判って貰える。慌てて振り返ると、ニタニタと相変わらず口元に下品な笑みを蓄える井上が居た。選りに選って井上に聞かれた雄一は、呆然と井上を見た。
「若いねぇ、先生。」
自分にも覚えがあると云うが其れは、其れこそ思春期の話で、井上は若い若いと雄一をからかった。
「其の精力分けて貰いてぇわ。」
「私だって差し上げたい…」
頭が腐りそうな程の欲求、腐る前に井上に“押し付け”たかった。
抑井上、何故居るかと云うと、雪子に用事がある為だ。在の木島邸の全てが国家に移動する為、必要な物があれば取りに行けと云う。然し雪子に動く気配は無く、雪子を木島邸に送ろうと考えて居た井上は、全くの暇を持て余したのである。平日である為清人は居らず、ならば家は直ぐ目の前なのだから静養して居れば良いだろうと思う。井上も実際其の積もりで応接間から歩いた。来た時には閉まって居た書斎のドアーは開いており、偶ゝ前を通った時、原稿用紙への言葉を聞いた。頭が腐りそうだとは何事だ、等ゝいかれ狂ったか、此れは全て殴られ過ぎた所為に依るものだな、等と勝手に解釈し、然し何だ、良ゝ聞いて見れば楽しい事では無いか。
他人の色事程楽しい物は無い。
大の男が嗚呼でも無いこうでも無いと恋心悶ゝ考える等、滑稽愉快他為らない。色事に苦悩覚える人間を弄るのが、井上は昔から好きであった。自分の言葉一つで動揺見せる姿は、井上の持つサディスティックを充分に刺激した。自分が反対にされた時は全くの無反応であるが。
「性欲が爆発する前に私が爆発しそうだ。」
「相手が雪子さんだからなあ…」
井上が初めて雪子を見たのは、もう二十年も昔である。他の娼婦とは雰囲気が違って居た。
雪子は全く、性を匂わさない女であった。かと云って神聖さがある訳でも無かった。人間臭い訳でも人形的な無感覚でも無く、何とも不思議な印象を持ったのだけは覚えて居る。
時恵みたく人形みたいな人間でも、時一の細君みたく人間みたいな人形でも無い、けれど人には見えない。
雪子を見た人間は、必ず不思議な“違和感”を覚えて居た。
其の違和感が、雪子の魅力だと、和臣は元より、雄一も井上も思った。
何を如何扱えば良いのか、説明書があれば良いのだが。
「とんでもない女に惚れたかも知れません。」
今更気付いた所で、原稿用紙に感情を走らせる様な作業で無い事に苦悩を覚えるしか無い。
事実は小説より奇なり。
自分が身を以て知る羽目に為るとは、雄一も考えては居なかった。




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