モラトリアム


静かな夜だった。何時もなら聞こえる虫の声も、其の晩は一切聞こえて居なかった。其れが一層、雪子の心を痛め付けた。矢張り在の時、井上の誘いを素直に受け、木島邸に向かえば良かった。政府に権利が以降した数日後、雪子の元に一つの荷物が送られた。此れは御返ししますと、神経な加納の文字が並ぶ手紙の下に、引き裂かれた軍服と其の持ち主の修繕された写真があった。額に見覚えが無い所を見ると、政府側が気を利かせ用意したのだろう。額に入る写真は宗一が持って来た在の写真で、表はそう判らないが裏は無惨に破られた跡があった。其れを此処迄修復したのは八雲である。
額の硝子越しに笑う和臣の目元を触り、此の写真の代わりに飾られて居るであろう写真を思うと涙が出た。
「和臣さん。」
写真が本人であるかの様に雪子は縋り付き、肩を震わした。
「如何して、ねえ如何してよ…」
私はこんなに貴方を愛してた、なのに何故こんな形で自分を裏切ったのか、聞いた。
「貴方なら調べる事も出来たでしょう、何で其れをして呉れ無かったの。貴方の事なら全て、私は受け入れたのに…っ」
例え他に、和臣自身でさえ知らぬ間に生まれた子供が居様が、和臣が其の子供の存在を無視して居様が、雪子は受け入れた。偶には顔を見せて御遣り為さいと、笑って居られた。
「新を返して…」
和臣は面白い事に、双子には一切関心を持たなかった。一幸にだけ執着を見せ、周りも同じに執着を見せた。
雪子はと云えば、一幸よりも双子、其れも新の方に酷い執着を見せて居た。
周りは一幸を見ると決まって和臣の生き写しの様だと云うが、雪子は新の方がそうだと感じて居た。一幸を見てそう思うのは、無表情で野心秘めた目をして居たから。詰まり、修羅に酷似して居た。笑いもせず、感情の無い目を辺りに散らす、此れこそが、周りの知る和臣の姿であった。
一方新は、良く笑って居た。馬鹿な事をしたかと思えば行き成り利発に為り、周りを驚かせ退屈させなかった。雪子の愛した和臣の姿が、其処にはあった。
雪子にとって息子等は、比べられない代物だが、誰を一番愛して居たかと聞かれれば新で、疎ましく感じて居たのは矢張り一幸だった。
折は丁度、此の二人をくっつけた様な性格である。一幸の冷淡さと新の野蛮さが上手い具合に融合し、雪子は見て居て面白いのであった。笑わないのは自分譲りなので希望は持たない事にした。
正直、此の写真を破ったのが一幸で良かったと雪子は思う。自分の受けた裏切りを、一幸がした。そう雪子は思う事にした。
「一幸に、裏切られた気分は如何?和臣さん…」
和臣が雪子に見せた裏切りと、一幸が和臣に剥き出した裏切りは同等に思え、何時しか笑いが込み上げて来た。
酷く傷付いて居るに違いない、其れと同じ程私は傷付いた。いいえ其れ以上よ―――。
受けた悲しみは何時しか怒りに代わり、其れを過ぎれば無関心と為った。




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