モラトリアム


雄一の書斎には未だ明かりが灯って居た。遅く迄有難いと感謝し、清人の様を見た。夏とは云え、扇風機を回して居るので、腹を出して居ないかの確認である。行儀の良い清人はきっちりとタオルケットを肩迄掛けて居た。問題は折である。暑い暑いと、腹を出す所か全裸で寝て居るかも知れない。覗くと、夜遅いと云うのに起きて居た。何をして居るかと思うと、酒を飲んで居た。一重も無愛想も雪子譲りであれば、酒飲み加減も譲り受けた。和臣も酒好きであったが、在れは陽気に飲む宴会の類が好きなだけで、折の様に鬱ゝと飲んでは居ない。此の飲み様は雪子と同じ暗さを持って居た。
「其れ、神楽坂さんのでしょう?」
ドアーから顔だけ出し、雪子は云った。其れに折は驚きも見せず一瞥しただけで、グラスを空にした。
「何か用?」
「呼ばれて良い?」
「駄目って云っても、来るんだろう?」
「当たり。」
ベッドに座る折の前に雪子は座り、グラスを受け取った。其れはワインで、雪子は余り好きでは無かった。なので一度部屋を出、隣の自分の部屋から違う酒を持って来た。折は呆れ乍らも、ワインと清酒の入るグラスを近付けた。
「音は鳴らしちゃ駄目よ。近付けるだけ。其れがマナー。」
「母さん、意外と知ってるんだ。」
「一応、元帥夫人だったからね。」
「凄い皮肉。」
薄い唇は其れに似合う薄いグラスを付け、中の赤色を付着させた。舐め取る舌先も薄く、何処迄も雪子に似て居た。
「私も、呼ばれて良いですかな?」
物音に気付いた雄一は執筆中の手を一旦止め、雪子の部屋を覗いた。其処に姿は無く、聞き間違えかと思った時、折の部屋から珍しく声が聞こえた。今迄の隙間を埋め様と、親子の邪魔をする積もりは無いが、煮詰まって居た雄一は気分転換がてら声を掛けた。雪子或いは折から「嫌」「駄目」と云われたたら大人しく引き下がる積もりで居た。
「良いよ、御出で、公爵。」
「嗚呼、浮雲だったか。此れは失礼。背広を着て来るよ。」
雄一の中で、背広は爵位を表す制服の様な物だった。爵位が無くなった今、雄一は背広を着ない。物書きとして存在する時は普段の侭、着物である。
雪子は一度、其れを聞いた事がある。背広を着ない雄一に、折が疑問を持った。折の中で雄一は金持ち宜しく西洋の服を纏い、ニヒルな笑みを蓄えた男。其れが一緒に住み始め、物書きとして存在する雄一に気味悪さを感じたのである。
日本を代表する物書きが西洋の服を着て居ちゃ箔が無いだろう。洋服を着た文豪と和服を着た文豪、何方がより日本の文豪らしいかな。
此れが雄一の持論であった。尤も雄一は、一度も自身を文豪と自負した事は無い。文豪イコール和服の持論は、雄一の師の姿がそうであった為である。出版社主催の会合で一度、師の洋装を見た時、酷いショックを受けた。背は低く痩せては居るがどっしりとした風格と威厳表す日本随一の文豪が、両脇に出版社の人間が居た為か、何だか捕獲された貧相な猿に見えた。其の時から雄一の持論は確立された。師から「御前は背丈も足の長さもあるのだから洋装の方が良い。帯の位置が高過ぎて滑稽だ」と幾ら云われ様が変える積もりは無い。
「そうか、じゃあ俺も浮雲に為るかな。」
支度に二時間掛かるが其れでも良いかと折は鼻で笑う。
「物書きと無職の青年と貴婦人、其の摩訶不思議な会合で良いじゃないか。」
「普通に青年で良いだろう…」
「実際無職じゃないか。」
「原稿用紙と逢瀬して無いだけ良い。俺は実物の女と逢瀬してんだ。」
「痛い所突くな…折は…」
数分前迄酷使して居た手を眺め、残像だろうか、掌に原稿用紙の升目が見える。其れも白紙の。
雄一にグラスを渡した雪子は云った。
「神楽坂先生の復帰に。」
三つのグラスは近付き、雄一は楽しさに薄く笑った。




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