モラトリアム
余程高揚したのか、一時間もすると雪子はベッドに伸びた。一切酔いを見せない雪子が見せた姿に折は「不思議な事もある」と云う。
折が酔い潰れる前に雪子が酔ってしまったのだ。楽しい楽しいと、細い足をばた付かせ、覗く白さに雄一は驚いた。折の白さ等比では無く、名の通り雪の色をして居た。筋肉を緩ます頬は、そんな雪に反射した夕日の様な色で、葉の形をした目の奥の瞳は朝露を含んで居た。
「母さん、酔うのは構わないけど此処で寝ないでよ。」
「私の部屋で寝て良いわよ、んふふ。」
釘を刺す折等構い無し、酌の手は止まらない。
「此の侭じゃ寝るな。」
「絶対にな。」
見兼ねた雄一はグラスを置き、漆黒の髪を流す雪子の頬に触れた。雪子の熱が雄一に移行した様に触れた指は熱く為り、酔っては居ない筈なのに頭が揺れた。
「雪子夫人、雪子夫人。部屋に運びますからね。」
「一人で大丈夫よぅ…うふふ。」
むっくりと起き上がり、一度後ろに大きく揺れた。雄一の支えが無ければ壁に頭を直撃させた筈なのに大丈夫と繰り返す。酔って居る奴程「酔って居ない」と豪語し、勿論「大丈夫」と言い張るので始末が悪い。
折の咥えて居た煙草を一口飲み、雪子を抱えた。
「付いて行こうか?」
「いや、良い。私も寝るよ、御前も早く休み為さい。」
「良い感じに酔いが回り始めたから寝るよ。」
「御休み、折。」
「御休み、………父さん。」
気恥ずかしそうに折は云い、薄く口元歪めた雄一を見ると枕元の電気を消した。暗闇で瞼を閉じて居るとずっしりとした疲労が折を襲い、すんなりと眠れた。
ゆっくりと雪子を寝かせた雄一は眼鏡を外し、ぼやける視界で雪子を見詰めた。
「グラス…、グラスは何処…」
寝室に移動したのも判らない雪子は辺りを手探り、酒を探した。代わりに雄一は水の入ったコップを渡し、飲んだ雪子は酒で無い事に気付き中に戻した。
「何此れ…」
「酒ですよ、雪子夫人の大好きな。」
「水です、此れは水です。」
英文を其の侭訳した様な言い方をする雪子に雄一は引き攣り、仕方無くブランデーを垂らした珈琲を渡した。此れが至高と云わんばかりの表情に雄一も同じ物を飲み、横に座った。
「うん、此れは中々。官能的な芳香ですね。」
「でしょう、でしょう?」
「互いの甘い匂いが上手い具合に、いや素晴らしい。」
「ウィスキーとチョコレートの組み合わせより、最高よね?」
「はい。」
満足したのか雪子は珈琲を飲み干すと大人しく寝た。焦点合わぬ目で雄一を見、合うと一度瞬きをした。顔の真ん前にある雄一の手を触り、余程酔って居るのか唇を付けた。驚きを見せた雄一に雪子は唇を離し、そっと笑う。鼻奥に残る官能的な匂いは、雪子其の物だった。
「大事な手だもの。」
「はあ…」
「大事にしてね。」
「はい…」
触れた侭の雪子の小さな手。離して良いのか迷い、何時迄経っても雪子が離さないのを良い事に掌を合わせ、握り締めた。
「小さな手ですね。折みたいです。」
「此れも遺伝しちゃったのよ。」
自分の嫌いな所全て遺伝して仕舞い可哀相と雪子は笑った。
「和臣さんは凄く大きかったわ。御義父様が大きい方だったから、皆に遺伝したの。私と時恵さんね、時恵さん、私より十センチ以上小さいのに、私より大きかった。宗一さんも、繊細な長い指で、薄いの。女性みたいなとっても奇麗な手。時一さんは御義父様に似て、どっしりとした手をしてた。兄弟でも違うのね。」
思い出し笑う雪子だったが、雄一には和臣以外把握して居なかった。名前を云われても判らず、雪子が一体何を話して居るのかも判らず、最後で漸く、和臣の異母兄弟の話をして居るのだなと知った。
笑って居た雪子だが、ふっと笑顔は消え、代わりに雄一の手を握り締めた。
「私だけが、残っちゃった…」
時恵が死んだ事にショックを受けて居た雪子は、続ける様に独逸に居る二人が死んだ事に更為るショックを受けた。そして、過ごして居た家迄も消えた。
息子は情死と云う最悪な死に方、其の傷が癒えぬ内に時恵が病死、そして時一宗一の自殺と続いた。一人取り残された雪子の不安は、安易に想像出来様。
雪子を初めて見た時、其の細さに雄一は病気では無いのかと不安を覚えた。其れ程雪子は細かったのだが、今では一層細く為って仕舞った。
涙は見せないが肩を震わす雪子を慰める様に握り返した。
「私は、死にませんから。大丈夫ですよ。」
自分が死ぬ前に雪子が心労かアルコールの中毒症でぽっくり逝くのでは無いか、心配である。結婚して数ヶ月程だが、酒の量がかなり増えて居る事に雄一は最近気付いた。
「雪子夫人の方こそ、私を残して死なないで下さいね。」
年も年なのだから、とは流石に云わなかった。
其の言葉に雪子は漸く笑い、「心中しても生き残るタイプ」「運だけは強い」と自虐噛ました。
「心中もね、最近流行ってるのかしら。」
新がそう為る迄気にも止めた事無かったが、新聞の隅の方で一日一組は必ず情死して居た。
「楽しみが無いですからね。死ぬ位しか遣る事が無いんでしょう。」
「景気は良い筈なのに、何故かしら。」
「心の景気は悪いんですよ。」
「して見る?私と。」
酒の所為で雪子の顔は笑って居た。けれど其れは、本音から出た笑顔の様に雄一は見えた。
「雪子夫人、先程、心中しても生き残るタイプと仰いましたよね…?」
「あら、そうだったわ。嫌ねぇ、最近物忘れが激しくって。うふふ。」
数分後には此の会話さえ忘れそうである。
重なる手を雄一を眺めた。此の侭手首を縛り合わせ其の状態で、互いの死因が心臓麻痺でも、世間からは情死と呼ばれるのか、考えた。
「そうだ、そうです。」
雄一は何かを思い出した様に声を出した。
「英文科の教材に、シェークスピアのハムレットがあります。そうです、心中が流行って居るのは、屹度其の影響です。」
全くとんでもない物を教材に選んだなと文部省を恨んで遣りたいが、心中を決行したのは本人達の自由なので恨んでは筋違いだ。文部省が全く何も考えず心中を奨め様が、若者が暇潰しに心中し様が、雄一に興味は無かった。
「心中が流行るってのも、面白い話よね。」
「次は自殺が流行りますよ、絶対。集団自殺とか。」
「其の次は他殺が流行るわね。」
「そして無差別殺人が流行ります。」
「そして又、心中が流行るのかしら。」
次に心中ブームが来た時は来世、其の時は運も悪く為って居るだろうから流行りに乗れるかも知れない。
笑った雪子に、如何して此の人は心中に拘って居るのか、理解出来無い雄一は苦笑った。尤も雪子自身も、死ぬ程心中したい訳では無い。周りが死に過ぎた為、考えが全て死に結び付いて居るに過ぎない。
握って居る手にもう片方の手を重ね、雄一は云った。
「相手は、私ですか?」
「んー、違うかも。」
「矢張り木島ですか?」
「和臣さんは、心中のイメージに合わないわよ。」
云って雪子は、其のイメージは時一だなと気付いた。繊細な文学美少年が年上の男、例えば妻子ある教師と情死、中々に良いでは無いか、是非雄一に書いて貰いたい。
其れと無く雄一に提案したが、同性愛は趣味じゃないとあっさり云われた。
「雪子夫人が書いたら如何です?」
「私だったら、原稿用紙半分で終わるわ。私は妻子ある教師に恋をした。報われない愛を形にする為一緒に死んだ。何だ、たった二行で完結して仕舞ったわ。」
完結云々の話では無い、余りの短さに雄一は声を出し笑った。国語の成績だけは無駄に良い清人の方が未だ話を膨らます。掌編位には為るであろう。
「神楽坂先生が情死を題材にしたら、どんな作品に為るのかしら。」
「私ですか?私だったら…」
一度も考えた事の無い題材で、雄一は暫く考えた。誰かと死にたい所か、死にたいとも考えた事の無い雄一は全く想像出来無かった。
「未亡人と、心中するかな…。相手の男は年下で、死んだ旦那を愛してる潔白な淑女と。」
待て、此れは全く自分の話では無いか。自分にも心中願望があったのかと雄一は恐ろしく為った。同時に、潔白な淑女、雪子の冷ややかな視線も感じたので、慌てて訂正をした。
「実の姉弟。弟が姉を愛して居て、姉は既婚者。其の旦那と云うのが金だけ持ってるエロ爺。弟の為に結婚した姉。そして弟の子供を身篭る。」
「そして心中するのね?」
「そうです。」
「素敵。」
素敵素敵と雪子は目を輝かせ、繋いで居る手を離し、拍手をした。
手が離れただけだと云うのに、雪子自体が離れた気持に為った雄一は、拍手を止めた手をさりげなく又握った。
「書いて差し上げたいけど、今執筆して居る奴の締め切りが一ヶ月単位で半年間あるんです。」
其の頃には又新たな締め切りが居る。雪子が望む作品は出来そうに無い。残念、と眉を落とした姿に、今の連載が終わった後暫く連載は止めるかと雄一は思った。前妻が、批判は止めて呉れと泣き乍ら訴えても心動かされ無かった雄一が、雪子の落ちた眉一つで出版社を泣かせ様として居た。先生の連載が無いと売上がた落ち、らしいのである。
「いや、一寸待て。そう云えば私、本郷元帥から仕事を貰ってた…」
「え?等ゝ仏批判を始めるの?」
「違いますよ、物騒な。」
うっかりして居たが軍属である事を思い出した雄一は、ぐっすりと力を抜かしベッドに倒れた。
在の分厚い書類を読む事から始めるのかと、起き上がる気力も無い。
「明日で良いや…。半年後でも良いや…しなくても良いや…」
余りの脱力感に新の様な甘えた口調に為る。そうか、在れは折から受けたストレスで無気力と為り、あんな口調だったのかと知る。
枕に顔を埋め、遣りたくないと繰り返す雄一の頭を雪子は撫でた。夫と云うよりは子供の様で、普段と違う姿に雪子の母性本能は剥き出した。小さく笑い乍ら頭を撫で、子供をあやす様に背中に覆い被った。
「ふふふ、よしよし。」
「嗚呼嫌だ、本当に遣りたくない…」
「此ればかりは代わってあげられないからね。」
「こんな苦労する位なら、在の侭加納に殺されて於けば良かった。」
「物騒ね。清人ちゃん、可哀相じゃない。」
「嗚呼、そうですよ。私は物騒で無責任な事を平気で云う男ですよ。」
枕に顔を押し付けて居る為か息苦しく、けれど仰向けに為る気力は無い。背中には雪子がピッタリと身体を寄せて居る。本来なら胸の感触位しそうなもの、其れも全く無い。
少し前迄は欲情して居た筈が、気力と共に失せた。キッスの一つ位すれば良いのだろうが、思考力さえ失せて居た。
全く陸軍さんは碌な事をしない。
批判家とは二度と語らないと誓ったのに、今一度語らせては貰えないか、枕の厚さが受け取った書類の厚さに似ていた。
〔
*prev|7/10|
next#〕
T-ss