モラトリアム
こうも暑いと食欲何て湧かないわね、と雪子は口走った。貴女は何時も、真冬であろうがそうでしょうと云いたい口を雄一は我慢した。
雪子は実際、暑さに食欲を失せて居た。普段ならば、例え自分に食欲が無くとも支度はするのだが暑さの前では其の力も無い。一番に参って居るのは清人である。
昨今の暑さ、尋常では無い。
東京は何て暑い場所だ、と田舎から出た雪子は思った事があるが、其れから二十年余り、在の時には無かった車が走り出し、気温が上昇して居る。エンジン音轟かせ、濛ゝと排気ガスを出す車、ビルは立ち並び、其の隙間を埋める様に人が押し込まれる。
暑い筈である。
郊外に住まいを移して良かったと、銀座から帰宅した雪子は心から思った。
「義理立てて出向いたもの、疲れただけだったわ。」
結婚した時から贔屓にして居る呉服店が、創業百周年と云う事で振る舞いをした。今更無視をするのも気が引け態々出向いたのだが、長着を一つ新調しただけで帰宅して仕舞った。手ぶらで帰るのも味気無いので、折に伊達締めを購入した。雪子の趣味では無い派手な伊達締め、大凡娘が好みそうな物であった為呉服店の主人は「娘はん、居てましたっけか」と聞いた。雪子はまさか「女装癖のある息子に…」とも云えず、「知り合いの娘さんに」と態ゝ贈呈用包装して貰った。
渡した其れを折が着けて呉れるかは判らないが、雪子は満足して居た。
ソファに座り、一息付いた所でチャイムが鳴った。重い腰を上げ、来たのは雄一の担当者だった。図書館が似合いそうな如何にもな担当者で、日焼けを見せない色白の肌、細い顎、少し栗色をした髪、長い手足は長身から生えて居る。此れは文学少女に持て囃されそうである。
「雄一先生は御在宅で。」
「ええ、御通ししますわ。」
「失礼。」
皺一つ無いズボンを曲げ、座って靴を脱いだ。其の侭正座すると靴を揃え、律儀な人だな、と雪子は背中を眺めた。揃えられた靴の横には、折が放り出した草履が、片方裏を向き散らばって居た。
「全くねぇ、済みませんで…」
殆呆れ、疲労覚える腕を草履に伸ばした。
「娘さんですか?」
「ええ、まあ…」
「其れは良かった。」
「良かった?」
担当者は笑う。
「雄一先生、娘が欲しいと、一度仰って居ましたので。」
「男親ってのは、娘が欲しいもん何ですよ。」
無意識に強い口調に為って仕舞い、慌てて雪子は訂正した。
「いえ、矢張り、愛らしいですもの…」
繕う雪子だが担当者の目は薄情な物で、無言で歩き出した。書斎に行くのかと思ったが、向いたのは縁側で、薹の椅子に座ると鞄から本を取り出した。礼儀正しいのかそうで無いのか混乱し、雄一に担当者が来た事を知らせた。原稿用紙に向いて居た雄一は、ペンを置くと溜息を吐いた。
「田口さん?」
「名前は、さあ。」
「中年の男性でしたか?」
「いえ、若い方です。大学生みたいな。」
「最悪…」
居ない事にして呉れないかと雄一は頼んだが、居ると云って仕舞った。今更居ませんとは云えず、云った所で嘘であるのは明確。向いて居た原稿用紙とは違う原稿用紙の束を掴み、渋ゝ腰を上げた。
「持て成さないで下さいね。呉ゝも。」
「何故?」
「居座られたら堪ったもんじゃない。」
「御茶位は…」
暑い中来たのだから労って遣っても良いとは思うのだが、雄一は、一秒でも早く在の担当者を追い出したいのだ。
「今川さん。」
「嗚呼先生、漸く現れましたね。」
雄一はそう、此の担当者と云うか出版社から逃げて居た。
今川はぬめぬめとした目を向け、矢鱈大きな口を真横に伸ばした。
「軍事批判は止めたんだ、私。」
「ええ、存じ上げてます。」
「だから、其方とは手を切りたいんだ。」
「困ります。」
「そう云われても私が困るよ。無い物を出せと云って居るんだぞ、君は。」
「批判文は結構ですから一つ、僕達に話を提供して下さいませんか。」
「表向きの出版名に、って事か?」
「ええまあ、そうです。」
二人のやり取りを廊下から見て居た雪子は思った。
此の今川と云う担当者、雰囲気が加納に似て居る。恋愛に幻想抱く少女からは好かれるだろうが、人から好かれる事は無いなと知る。現に、こうして見て居るだけで、雄一の今川に対する嫌悪は見えて居た。
「締め切りは?」
「無いです。」
「はあ、判った。」
連載で無いのが救いだった。
一言雄一は腰を上げ、持って居た原稿用紙を渡した。
「途中だ。気に入れば仕上げる。」
気が向いた時に原稿用紙と一緒に返事を寄越せと、雄一は去った。廊下で見て居た雪子と出会し、矢張り茶の一つも渡さないのは気持悪く、「御茶は要るかしら」と盆を向けた。
「御好きにして下さい。」
原稿用紙を一枚読み終えた今川は、書斎に向かう雄一に声を掛けた。
「先生。」
「忙しいんだよ、私。他社の締め切りが明後日でね。」
「仕上げて下さい、此れ。」
読み掛けの其れを、硝子の嵌め込まれたテーブルに置き、じっとりとした梅雨の様な目を向けた。
「此れは、受けます。」
「受けるもんか。」
書斎に向けて居た足を又戻し、座り直した。其処で雪子は安堵し、本懐遂げる様に二人の前に茶を出した。
「珈琲が宜しかったかしら。」
清涼を感じるコップには冷たい麦茶が注がれ、前に伸びた雪子の、其のコップに似た繊細な手首に今川は見惚れた。座り、雄一を見上げる後ろ姿、結われた髪は後れ毛を見せ、抜かれた襟から曲線描き伸びる項に張り付いて居た。半襟の無い無防備な浴衣と云う姿が、今川の興奮を呼んだ。
「彼女が。」
「はい?」
雪子の後ろ姿を視姦して居た今川は、雄一の声に視線を原稿用紙に戻した。雄一が気付かない筈は無く、咎める其の目を見たく無かったのだ。
「人の妻を視線で陵辱しないで貰いたい。」
「してませんよ。」
「嫌ですよ神楽坂さん。十代の娘さんならいざ知らず、こんな年増、誰がしますか。」
雄一の腕に触れ、腰を上げた雪子は一つ頭を下げると姿を消した。消えた雪子を寂しそうに見詰める雄一の目は、見た事の無い物だった。
「先生。」
「嗚呼、うん。」
視線は横に向いた侭、上の空で答えた。
「仕上げて下さいね、此れ。」
「提案者は彼女何だ。書いたのは私だが。」
其の言葉に、今川は欲望を震えさせた。
妻子ある教師に文学少年が惚れると云う在れである。
教師と生徒と云うだけでも充分に危険を匂わすのに、同性同士と来た。雄一は在の時、同性愛は趣味じゃないと云ったが、一度此の出版社で“蛹乃声”と云う掌編を書いた事を思い出した。大衆向けの出版社なら「受けない」と一言云われたて終わりだが、此の出版社なら喜んで刷ると確信した。矢張り的中し、余程気に入ったのか、今川は既に五枚読み終えた。
「十五歳と云うのが良いですね。一番葛藤を覚える時期。」
雄一でも無い、在の雪子が考えたと云うだけで、今川は興奮した。雪子の秘めた性を、直視した気分だった。
「然し先生。」
ぬめりとした今川の眼光、蛞蝓みたいで鳥肌が立った。
「前の奥方とは、随分と趣味が違いますね。」
「玲子の話はするな、腹の立つ。在の淫売。」
「そう仰られますな。」
「寝て居た癖に何を今更。」
雄一が今川を嫌悪するのは、此れが要因であった。批判を提供し、独房にぶち込まれ散々殴られ、死に掛けたのは一度だけでは無い。最初に批判を提案したのは他為らぬ今川で、雄一尻目に其の妻と懇ろに為った。二人に恋愛感情が一切無いのは判るが、此れなら逸そ、惚れて仕舞いましたと云われた方がマシであった。そうすれば潔く身を引けた。
雄一に咎められ様が遊びである今川は、何の痛手も見せず視線を近付けた。
「最初に誘ったのは、玲子の方。俺じゃない。」
「仕向けたのは御前だろう。」
「嫌だな先生、嗚呼云うけばけばしいだけの女は趣味じゃないんだ。見た目其の侭、頭悪い女だったね…?」
「帰って呉れ無いか。」
今川が何を云いたいか把握した雄一は、今度こそ書斎に行こうと背を見せた。
「雄一。」
雪子は、大学生みたいな人、と云ったが、実は今川、雄一より年上で三十過ぎた男である。然も大学の文芸サークルで知り合い、雄一は所謂後輩だった。其の時から今川は嫌味且つ気味悪い雰囲気で雄一を怯えさせ、一方で雪子の考え通り女学生に人気あった。腐れ縁と云うか、逃げられないと云うか、虫の様に雄一に付き纏った。
文才は一切無い癖に、作家の醜い本性を引き摺り出す事だけは得意で、表立って活動出来ない作家を良い様に操り、需要が無くなれば容易く捨てた。
「此れ、完成させてね?」
七枚の原稿用紙を上に乗せ、雄一の神経を逆撫でた。
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