買物を終えた新は、馴染みの喫茶店に足を向けた。此の喫茶店は大通りから少し脇に入った場所にある為、何時も客が少なくしかし潰れる気配は全く無い。暇そうな、如何にも老紳士と云った風貌のマスターは、鳴ったカウベルに顔を上げ、いらっしゃい、薄く笑った。今日は珍しく客が居た。
見た事も無い客だった。
此処に来る客は大概決まって、其々顔馴染みだった。何処に住み、何をしているのかと云う情報は無いのだが、此処でマスター自慢の珈琲を、下らない愚痴を零し乍ら飲む、そんな感じである。
其の空間に突如現れた人物。テーブルに頭を突っ伏し、眠っている。
「今日もど偉い荷物だな、新。」
「んー、浮雲さんがね。」
一瞥した新は勝手に決めた指定席に座り、早速愚痴を零す。マスターは声を出して笑い、豆を挽き始めた。
がりがりと砕ける珈琲豆。こつこつと沸騰し始める湯。針が浮いた侭の蓄音機。長く横に流れるマスターの三つ編み。其の後ろに飾られる、マスターの小さな肖像画。
此処には新の大好きな物が沢山詰まり、まるで秘密基地に隠した宝箱の様だ。
「ねえマスター。」
「んー?」
湯気に隠れたマスターの顔、其れを取り巻く珈琲の匂い。
官能的だった。
「何時死ぬの?」
「さあな。気が向いたら死ぬさ。」
新のからかいをマスターは適当にあしらい、静かにカップを置いた。
「俺が死んでも、御前の望みの在れはやらんよ。」
小さな肖像画。
緊縛絵師である簾佐野恭一が描いた、たった一枚の人物画。新は其れが欲しくて仕様が無い。
「マスター、昔から奇麗だったのね。」
「そうさ。」
「髪型も同じだし。」
紙の中のマスターは、ぼんやりとした表情で薄く口を開き、何処かを見ている。描いている人間を見て居るのだろうが、曖昧だった。
「ねえマスター。」


聞かせてよ、彼の話を。
井上の旦那よりもはっきりと教えてくれる彼の姿。
俺は絶対。嗚呼…!
彼に恋をしている。
彼がモルヒネ中毒だったと同じ様に、俺も彼に中毒症状を引き起こしている。
素敵だ素敵だ。
俗から離れた其の世界。嗚呼、万歳…!


「万歳万歳…」
ぶつぶつと新は小さく歌い、虚ろな目で鉛筆を滑らせた。何を描いているのか自分でも理解し難いが、簾佐野恭一の話を聞くと動かさずには居られない。在の客が寝ているのを良い事にマスターは新の前に座り、新を眺めた。
「何か、似てるな。」
「何に?」
「恭一に。」
手が止まり、父親譲りの大きな黒目を向けた。
「其れともう一人。」
良く知る人物。
けれどマスターは云わなかった。
吊り上がる目。笑うと本当に良く似ている。
「いや、もう二人、かな。」
「え?」
ゆっくりと顔を動かしたマスターは、在の寝ている客を見た。何時迄寝ている積もりなのか、マスターは立ち上がるとアルミの盆で客の頭を叩いた。ばうん、と面白い音がし、飛び起きた客に新は笑った。
「いったああいっ」
「営業妨害。」
「客何て居ない癖にっ、マスターの馬鹿野郎っ」
頭を抑え暴言を吐く顔に見覚えがあり、暫く考えた新ははっとした。
「ココア女っ」
行き成り指を突き付けられた客は顔を顰め、誰がココア女だ、私には名前がある、糞野郎、とガムを噛んだ。もごもごと口を動かし、煙草を咥える。
口が悪ければ態度も悪い。
「御前の所為で俺はなっ」
腹の立った新は、御前がココア何ぞ洒落た物を横で飲まなければ、俺は折に其れを作らずに済んだ、結果寒い中買いに行かされずに済んだ、と支離滅裂な暴言を吐いた。
「あ…?あんた行き成り何だよっ」
寄った新の顔に紫煙を吹き掛け、飲み掛けだったココアを一気に飲み干した。負けん気の女は床に灰を落とすと、恐ろしい剣幕で口を開いた。
「あたしの所為?ふざけんじゃないよっ、作ったのはあんただろうっ、何であたしが文句云われなきゃ何無いんだよっ馬鹿馬鹿馬ぁ鹿っ」
折並に口が悪い女に新は開口した侭固まった。折からの暴言は慣れているから良い。しかし、他人に嫌味で無い暴言を吐かれたのが実際初めての新は、何と云い返して良いのか見当付かず固まった。
「御前…口の悪さ、折そっくりだね…」
頑張って出したのは、此の言葉。
「御前じゃないっ。あたしには真誇って名前があるんだっ」
又もや剣幕に押され、何も云えない新にマスターは腹を抱えて笑い、御前に似てるだろう、そう云った。




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