弐
口の悪いココア女と言い合いをした所為で、見ろ。どっぷりと日がくれているじゃないか。空からずどんと闇が落ちて来た様に、大門に続く一本道は真暗だった。時たま擦れ違う大門帰りの男の手に持たれた灯火が、冷気の所為で強く光っている。遠くに見える大門、吉原の明るさ。目が眩みそうだった。
前の明るさが消える程の明るさを、俺は後ろから知った。夜でも判る光沢、丸い車体。案の定公爵の車だった。
「何やってるんだ?」
こんな時間に、と公爵は聞いた。全くね、と俺は答え、先に行つてゐて頂戴。花里姐さんの真似をした。
「乗るか?」
「客の車に乗れますか。」
手を振り、先に行く様促したが事もあろうか公爵は車から降り、俺の荷物を一つ持った。
「門に車を付けておけ。」
「畏まりました。」
「行く場所は同じだ。一緒に行こう。」
ゆっくりと前を走る車の後ろを、更にゆっくりと俺達は歩いた。暗くて良く判らないが、公爵の顔に歪みは無かった。持った荷物を勝手に公爵は漁り、大量のチヨコレヰトと砂糖、牛乳に失笑した。
「ココアでも作るのか?」
「…公爵、ココア知ってるのっ?」
「嗚呼。最近流行ってるよ。」
俺は何処迄俗から離れたら気が済むのであろうか。公爵曰く、今の時代ココアは何処の喫茶店にもある、確か陸軍が広めた。
陸軍。まさか在の甘党四天王では無いだろうなと思ったが案の定そうで、大戦から十五年した今、理由は不明だが爆発的に人気になったらしい。
「でもな新。」
「ん?」
「ココアを作りたいのなら、本人に聞いたら如何だ?」
「本人?」
「ココアを陸軍に持ち込んだのは元軍人だ。広めたのは本郷元帥。」
後、と公爵は続ける。
「マシュマロ。」
「マシュマロ?」
「嗚呼。」
マシュマロ。在れには嫌な思い出がある。
在れは忘れもしない八つの時。昼寝をしていた俺の鼻に、何をとち狂ったのか折が其れを大量に詰め込んだ。柔らかい所為で奥は疎か、手前のも取れ無かった。息をすれば砂糖の匂いに犯され、そして苦しい。二人では如何仕様も無くなり、母親に伝えた処、血相変え病院に運ばれた。其の時兄さんは笑いもせず、かと云って呆れもせず、何故そんな事をしたのか折に聞いていた。俺が痛さで悲鳴を上げる中、折は矢張り暢気にマシュマロを食っていた。
――理由は無い。唯、食っていた時、詰めたら如何なるのだろうと好奇心。
――自分に詰めなよ。
――いや、だって俺、起きてたし。俺、兄さんみたく自虐的じゃないから。
詰まりだ。寝ていた俺が全面的に悪い事になっている。其れが完全なきっかけと思う。俺は甘い物が大嫌いになった。
其の事件からマシュマロは禁止され、蜂蜜掛けカステヰラが登場する。
其の忌々しいマシュマロを持ち込んだのが井上の旦那。
ココアは広める、マシュマロは持ち込む。
「全く陸軍と云うのは禄な事しないっ」
「全くだな。」
其の週の公爵の陸軍批判は、何故かココアとマシュマロの話で、読者から疑問の声ばかり届いた。書いた後公爵自信も、何故自分がこんな事を書いたのか全く以て判らない、と翌週謝罪し、疑問の声の次は公爵を心配する声と、陸軍に殴られ過ぎた所為で先生の頭がおかしくなったんだ、陸軍最低、陸軍野蛮、と公爵の変わりに読者が陸軍批判をしたと云う。
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