恋をやめた理由


「待たんか和臣っ。吉村、吉村は居ないかっ、和臣を捕まえろっ」
「嫌ですよっ、誰が待ちますかいなっ。アラン、行くよ。」
狼に追われる兎みたく俺は逃げ、親父が秘書の吉村を呼ぶ様に俺は飼って居る狼を呼んだ。先日の酒場の代金、勝手に金を使ったのが又知れたのだ。階段を途中で手摺りから下り、階段下に居たアランは風の様に俺に付いて来た。其の侭広間を抜け、親父が階段を下り切った時には、広間から姿を消した。
「和臣様…っ」
行き成り現れた俺に、確認を取ろうと書類を持って居た吉村は書類を床にぶちまけた。二三枚踏んだらしく、「嗚呼っ」と悲鳴を聞いた。
「閣下、閣下…っ」
「邪魔だ、吉村。」
親父迄も書類を踏み、書類を拾う吉村を膝で蹴り、俺を追い掛けた。蹴られた顔面を押さえ悶絶する吉村に、時恵が手を差し延べて居た。書類に付いた靴跡を二人で消して居たみたいだが、其れより俺は、逃げる方が大事だった。
「和臣さん?血相変え何方へゆかれるの?」
「察して下さい、時子さん。」
擦れ違った時子さんは首を傾げたが、数秒後現れた鬼の形相に猪の盲進の親父に恐怖で座り込んだ。庭に逃げ、此の侭母さんの所に行っても良いが知れるだろうと、アランを母さんの方に遣り、左に曲がった。邸迄の道は使わず、草の中をゆき、縁側にひょっこり現れた俺におかんは撥を落とした。
「和…?」
「弾いてて、そして匿って。」
「今度は何したんやぁ?」
おかんはくすんくすん笑い、落ちた撥を拾った。
「何時もと同じ。」
「又孕ませたんかいなぁ。景気宜しおすなぁ。」
「違う、横領。」
「景気ええわぁ。」
おかんの小さい笑い声と三味線の音を耳に、到底人が入れないと思われる小さな空間に入った。実は此処、おかんが俺の為に奥をぶち抜いて呉れた。なので横になれば容易く、間一髪、戸を閉めた時親父は現れた。
「蛍。」
「へぇ、何どす?血相変えて、どないしはりましたん?」
暗い狭い空間に親父の声は嫌に響いた。
「和臣知らんか。」
「和?さあ。一海はんに聞きはったら宜しんと違います?母親違いどすえ。」
「一海の所に居たら聞かん。アランは居たが、本人が居ない。」
呼んだ筈なのに、と親父は狼みたく唸る。
「其れもそうどすわなあ。」
おかんははんなりと笑い、根本からおかんを信用して居ない親父におかんが何を云っても無駄で、探したいのなら探せば良いと、上がらせた。畳の擦れる音は其れは大きく、ぎちり。目の前で止まった。
「いや、まさか、な…?」
幾ら俺が小さいとは云え、幼児も入れないであろう其の場所は詮索され無かった。ゆっくりと足音は遠去かり、冷や汗は湧き出、生きた心地はしなかった。
「邪魔したな。」
「へぇ…」
芸妓とは、ある種女優なのだなと知る。鬱陶しい程狂おしく親父を愛するおかん。素直に帰して仕舞えば、何時もと違う事に親父は気付き、邸毎ひっくり返し探すかも知れない。縁側に三味線を置く音、見ても居ないのに二人の姿ははっきりと映った。
細く白い指先は背を向けた親父の着物を掴み、少し首を傾げ引く。
「宗一郎はん…、もう…御帰りどすか…?」
「御前に構ってる暇は無いんだ。」
残像見せ振り払われた手。たった数秒の、逢瀬とも云えない時間。
「折角、来て呉れはったんに…」
「下らん話なら聞かんぞ、蛍。」
俺は思う。
おかんと母さんの此の扱いの違いは何か。愛しても居ない、鬱陶しいと思う女を、何故妾にしたのか。そして今でも繋がりを持つのか、俺には理解出来無いが、母さんには判ると云う。
―――犬でも猫でも、飼ったら最後迄面倒見るのが甲斐性ってもんだろう。
おかんは犬猫と同じ。
其れでもおかんは、懸命に尾を振る。見ても貰えない、其の尾を。
草木を分ける音、静かな二人の間に、違う気配がした。
「アラン…?」
未だ親父が此処に居るとは知らずアランは俺を迎えに来た。具合悪いとおかんは俯いた顔を歪ませたに違い無い。アランに向く親父の気を、必死に自分に向けて居た。
「アラン、御前の主人は何処だ?」
「宗一郎はん…」
「此処に居るのか?」
アランの視線先を見る親父の視線は、嫌と云う程判り、感じない様目を瞑った。
「違うんやわ…」
おかんは近付き、アランが見る、俺が隠れる場所の戸を開けた。一気に汗が吹き出た。眩暈と耳鳴りがした。
「うち、寂しんや…。せやから…」
ゆっくりと戸を閉め、出した物をアランに渡した。
「餌付け、したんやぁ…」
アランは狼、親父に似ているから、餌付けした。宗一郎はんもこない簡単に出来たらええけど、そう云った。
差し出された、多分肉、をアランは貪り、そんなアランの頭を、屹度在の優しい目で見詰め乍ら撫でて居るに違い無い。
「アラン、可愛えなぁ。うちも、犬でも飼おかなぁ。少ぉしでも、寂しないかも知らんなぁ。小っこいのでええわぁ、貰て来て呉れはる?宗一郎はん…」
からりと、空に為った皿は地面に跳ねた。
「一海が居るだろう…、猫だが…」
「せやぁ、一海はんは猫やぁ。其れもど豪い別嬪な。せやから、仰山表行きはるんやわぁ。」
犬なら自分が連れ出さ無い限り傍に居て呉れると、居ない兄さんを匂わせた。
「なぁんも無いんやぁ、うち…」
親父もアランも見ず、おかんは云った。此れははっきりと見えた。余程焦って居たのか、完全に戸を閉めて居ないのだ。本の少しの隙間から、おかんの心の隙間を見た。
「自分の面倒も見切らん癖に犬か。大層だな。」
「其れは…、うん…、せやなぁ。堪忍な、忘れてな。」
垂れた目尻は、うっすらと濡れて居た。アランを撫でて居た手を親父は引き、行き成り上に引かれたおかんは反った。
「犬は諦めろ。」
離れた唇。余りにも一瞬の出来事で、我が目を疑った。
「仕事が終わったら、来て遣るから…。在の馬鹿猫は、主人の気も知らず“仰山”表に出てるからな。だから泣くな、な?」
嫌いな女の涙でも、弱いらしい。
全く本当に俺は、親父の息子と痛感した。




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