恋をやめた理由


「本当に居るよ…」
店に入る為り開口一番、ユカリは悪たれた。
「明日も来るんだろう?って云ったから。約束だと思った。」
「パパの金か?」
ユカリは皮肉に嫌味と云う調味料たっぷり振り掛け笑う。何とも美味そうな顔である。
「そうだよ、俺、学生だもん。尤も勉学には勤しんで無いけど。」
「女には勤しんでるけどな。学生でも仕事はあるだろう。」
「例えば…」
「新聞配達、とか。」
ママさんは煙を誤嚥する程笑い、終いには蹲った。
「坊ちゃまが新聞配達…、傑作だね…っ。有難い新聞だわな。」
そんな自分、想像しただけで、呆れた。ユカリはママさんが何故そんなにも笑うのか、俺が何故“坊ちゃま”と呼ばれて居るのか知らない為、「其処迄笑わなくて良いだろう」と、子供の仕事イコール新聞配達と云う自分の貧相な発想を笑われたと勘違いした。
「牛乳配達もあるよ…?」
「あっはっはっ。高貴な牛乳だわっ」
勿体無くて腐らせる家が続出すると更に笑う。
此処に来る客は馴染みばかり。ママさんが“坊ちゃま”と呼ぶので、周りもそう呼ぶ。客達は、雰囲気が坊ちゃまらしいからそう呼ばれて居ると思って居るが、ママさんは何も、雰囲気で“坊ちゃま”と渾名付けた訳では無い。子供の癖に酒場に入り浸る俺に業煮やした親父が、吉村を寄越したのだ。其の時客は、閉店時間が間近であったのもあり俺以外居なかった。見付ける為り吉村は、「和臣坊ちゃま」と吠えた。
「和臣坊ちゃま…?」
ママさんは、雰囲気と完全に一致した呼び方にくふっと笑った。そんなママさんに吉村は食って掛かり、子供を入れるなと赤い顔震わせ怒り狂った。
「金が入れば子供でも良いんですかっ、何て店だっ」
「まあ、そう為るね…?」
吉村の怒り何のその、ブランデーを入れたグラスを渡した。吉村はちゃっかり一口飲み、俺に向いた。
「閣下が御怒りですよ…、今直ぐ御帰り下さい…」
「何、坊や。華族なの。」
「父さん、爵位は持って無い筈だけど。」
身分撤廃の第一人者だから―――。
俺がそう、何と無く、何の考えも持たず云った。親父の其の思想は当たり前の事で、考える事も無かった。然しママさんは、ブランデーを床にぶちまけた。がしゃんと、半分残って居た酒は無惨な姿と為り、勿体無さを全身で感じた。
在れを全部売ればと其の利益と、勿論酒自体にも。吉村も悲鳴を漏らした。相当に、美味い酒であったのだろう。親父に付き合わされ、舌だけは超えて居る。此の見た目とは、不釣り合いではあるが。
「何…?」
「勿論無いなって。」
「ええ、凄く。閣下にも差し上げたい位でしたのに…。嘸御喜びに…」
「だから其の閣下だよっ」
俺はてっきり知って居るものだと思って居た。だから断りもせず酒を売るのだと。
「坊や…、いいえ、坊ちゃま…」
時間が立ち浮いた化粧は、何とも滑稽であった。
「木島、宗一郎…?」
蒼白した顔でママさんは呟き、俺は何も感じず酒を飲んだが、吉村は盛大に呆れを見せた。
「貴女、ねえ…。誰かも判らずに…、…坊ちゃま…。」
「だって、金払うんだから、残したら無駄じゃん。」
俺からグラスを取り上げ、此の酒の分とブランデーの分の金をカウンターに置き、俺の酒を流しに捨てた。
「此れでしたら文句御座居ませんでしょう?私の金ですから。」
「其の“私の金”は、父さんから貰ってるよね。」
勿体無さで身体を埋めるが、ママさんは仕切りに頭を振って居る。
「木島首相の、御子息…」
「ですからそう申しております。最悪の道楽息子の和臣坊ちゃまです。もう最悪、最低、閣下曰く儂の汚点。」
何故か俺は、酔って居たのだろう。吉村の肩を抱き、最低最悪のどら息子です、等と云って居た。ママさんは引き攣った侭額を押さえ、確かにね、そう云った。
其の日から俺は“坊ちゃま”と云う人間に為った。素性を知るママさんは笑うだけ笑い、手を振る。
「坊ちゃまに勤労は無理だよ。父親が死んでも一緒遊んで暮らせるんだから。働くって意味が判らないんだろうね。」
「其れは大層で。羨ましいよ。」
ユカリは此れでもかと呆れ果て、指定の椅子、カウンターの隅に座った。椅子を二つ開けた空間は、ユカリが俺に向ける壁にも思えた。
「俺と付き合えば、大層な思いが出来るよ。」
「………はっ」
栞から頁を見付け、鼻で笑う。馬鹿にした顔を振り、本に腕を乗せ俺を見た。
「学生でも、まあ良いさ。私は色事に年を絡まないから。」
出会って三回目、漸く其の気に為って呉れたかと浮かれたが、呆気無く沈んだ。
「唯あんたみたいな奴は、反吐が出る。金云々の話じゃ無くてね。」
マッチの匂い。ユカリが云わんとする事が判り、吐かれる煙と言葉に俺は黙る事しか出来無かった。
「坊ゝなのはあんたの所為じゃない。其れを私は如何こう云う積もりは無い。でも、“在れ”は頂け無い。あんたの意思、あんたの所為。あんたが自分で選んだ事。」
昨晩の会話をユカリは指摘した。
「だらし無い男は、大嫌いでね。」
切れ長の目は俺を嗤い、文字に向いた。間違いを指摘されると腹が立つのは子供故。無言でユカリを睨んで居たらしい俺をママさんは宥めたが、耳には入って居なかった。ユカリの肩を掴み、自分に向かせたが「鬱陶しい」と跳ね退けられた。
「俺を見てよ、ユカリ。」
「見て如何為る。私は最初に云った。子供に興味は無い、と。」
自分の馬鹿さを認めない程子供加減があるか。年齢云々の話では無く、根本を云うユカリは、今迄見て来た“年だけ上”で実際は俺と変わり無い“子供”の女達とは違って居た。
本物の“大人の女”を見た。
尾を振る事を知らない俺は一体如何すればユカリが俺を見て呉れるか、其ればかりを考えた。
「実際、未成年に手は出したく無いんだよ、捕まるから。」
「やだよ、此の子は。」
紙の擦れ音に、微かな希望を持った。
ママさんと笑い合うユカリ、初めて笑顔を見た。時恵が笑う時よりもずっと可愛く、胸に痛みを覚えた。
こうして無邪気に笑う女を、俺は知らない。常に色を宿し、誘う為だけの笑み。
「だったらユカリ…」
二十歳に為る迄の三年間、君に誠実を見せ様。
云ったが俺に自信は無かった。ユカリを見て居るだけで、欲情して居るのは事実だから。昨晩も在の後、情を抑えれず女を引っ掛けた位なのだから。
ユカリは無表情で鼻で笑い、出来るもんならね、と酒を飲む。
「和ちゃん。」
「何…?」
名前を呼ばれただけで、身体は熱く為った。
「此れ、返却期日が明日何だ。邪魔しないで呉れる?」
変色した紙をなぞる指先。誠意を見せろと、鼻で又笑った。




*prev|4/7|next#
T-ss