汝、琥珀
彼は、とても素晴らしい人。誰もが知っている、言わば常識。馬鹿な御頭なあたしとて其れは充分理解しているし、否定するつもりも無い。海軍元帥で、家柄も育ちも良く、浮気も博打もしない。
例え彼が、影で折檻をし様が人を見下そうが、あたしに其れを咎める事は出来ない。
彼はあたしを充分過ぎる程愛してくれるから。
他の人間がしたら手が飛ぶ様な非礼でも、仕様の無い方ですね、次からは気を付ける様にと、彼は笑うだけ。能面の様な顔で。其れが時に怖く感ずる事もあるが、こんな顔なのだと自分を納得させた。
彼は素晴らしい。
けれど、あたしは夜になるのが、一緒に寝るのが嫌で堪らなかった。
彼は寝る前必ず読書に耽り、暫くすると、かちりと電気が消える。眠り掛けたのあたしの髪に触れ、其れが、怖い。拒む事は当然出来ず、彼の感情が強い時は、自分の布団に入る前に彼の布団に寝かされた。
眼鏡を外した彼の顔は、何だか迫に欠けている。
彼との行為は、事務的で義務的。最中あたしはずっと横を向き、時折声を出し、彼がどんな顔であたしを抱いているか知らない。最初の頃は、彼も彼なりに考えてはくれていたが、あたしの心の、行為に対する嫌悪は消えず、彼は諦め、自分の快楽だけを求めるに終わった。
上から聞こえる、慾を吐いた後の彼の声は、とても甘い声だった。其の声だけ、あたしは好きだった。何だか可愛く、同時に、やっと終わったかという気持ちを持った。
彼はあたしを叱咤も叱責しない。しかし一度だけ、彼の本当の恐ろしさを知った事がある。
其の日あたしは朝から子宮が痛く、此れは生理が来るなと気分が滅入っていた。朝見送り、掃除を済ませ、彼の帰宅時間迄寝ていた。其れ程、生理前のあたしの子宮は痛い。座るのさえ痛い。
痛みを堪え乍らあたしは台所に立ち、なのに彼は余程感情が高ぶっていたらしく、あたしを後ろから抱き締めた。危ないからあっちに行って欲しいと頼んでも、余り食欲が無いという彼の身勝手な理由で、其れは受け入れて貰え無かった。
冗談では無い。あたしは腹が減っているんだ。おまけに子宮も痛い。何だか此処に立っている自分が馬鹿らしく思え、ダディの顔が浮かび、気付いたら実家の門を激しく叩いていた。
ダディは、何時も優しく腹を撫でてくれる。本当に御前は、其処迄姉さんにそっくり何だなと。
何故か、ダディの顔を見ると痛みが引いた。だから子宮の事等忘れ、彼の無理強いだけが頭に残った。
此の時位から、互いに呆れ初めた様思う。あたしを迎えに来たのは彼では無かったのだ。そして帰宅したあたしは、しこたま彼に説教された。やんわりとけれど棘ある云い回しで叱責し、罰ですと右手の甲で少し頬を触れる様に叩いた。ワタクシは嫌われたのでは無いかと、心が痛んだのですよ、薄く笑って。
彼は此処迄あたしを愛していた。
あたしも彼を愛していた。
けれど、あたしの望んだ愛は、其処には無かった。
周りが羨むのは、彼だけ。彼とあたしの愛を羨む者は、誰一人として居ない。
我が儘なあたしは、最後迄我が儘で居た。
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