切り取られた風景(前)
其の日の晩、俺は下宿先でのた打ち回った。猛烈為る腹痛に襲われ、夜中だと云うのに暴れ回った。下階に寝床を構える奴に「喧しい」と怒鳴り込まれたが、腹痛の所為で意識は朦朧として居た。蒼白し畳を叩く俺に奴は慌て、奥さんに迷惑は掛けられないと寝て居る男を叩き起こし、数人で近くの診療所に行った。
「何?」
「先生、急患。」
「うわあ、顔色悪いなあ。」
医者は暢気に俺の顎を掴み、顔を覗いた。明かりの灯った入口で見えた看板には“橘診療所”と打ってあった。
「橘…診療所…?」
薄れる視界で捉え、引き摺り込まれる様に中に入った。薬品の匂いが鼻を突き、こんな事態でも昼間に見た在の青年を思い出した。
「何や、どっか痛いんか?」
「腹…腹が…死ぬ…」
「何や拾い食いか?」
医者は笑い乍ら鎮痙剤を用意し、其の針先に又のた打ち回った。
「針は嫌っ、針は嫌ぁなぁっ」
「うっさいなぁ。自分訛り無いし、何処の人間やあ?」
「東京…、いや、本当、針は嫌…」
「ほうか、東京か。」
朦朧する頭を縦に振り、そして腕に刺された大した事無い針の痛みに絶叫した。
「何て事するんだあっ」
「ほんなら、一晩、腹痛にのた打ち回るか?」
針の恐怖に一層血の気を引かし、針は抜けたが恐怖は抜け無かった。ベッドの上で震える俺に奴等は頷き、朝に為ったら迎えに来ると、態々痛い腰を叩いた。振動に又唸り、医者は椅子に座って暫く俺を診て居た。
「ちょぉ、口開け。」
云われる侭開き、医者は少し匂いを嗅ぐとカルテに中かを書いた。
「変な病気ちゃうわ、直ぐ良ぅ為るで。」
冷えた指先に医者の熱い手が触れ、爪を診て居た。
「白いなぁ。」
「色黒ですが…」
「ちゃう、爪や。」
指先から離れた手は今度は下瞼を広げ、あっはっは、と豪快に笑った。
「真っ白けや。」
「痛いんですよ…」
医者は座り直すとペンを回し、何をしたか聞いて来た。
此れと云ってした事は思い付かず、若しや此れでは無いかと夕食には牛鍋を食べた事を話した。
「肉か…。いや食中毒ちゃうしなあ。他は?」
「欲望に負けて、団子を食べた…」
たらふく肉を食った後、通り掛かった団子屋の団子の旨そうだった事か。腹は牛みたく膨れ、胃袋の何処にもそんな余裕は無かったのだが、詰め込んだ。女子が良く云う、別腹、が俺にもあると信じたかった。動く事さえ面倒で、下宿先に戻った瞬間寝た。そして激痛に目を覚ました。
医者はカルテから目を上げ、眉間を掻いた。
「唯の食べ過ぎやで…。団子て又、よぅあんな溜まるもん食べたなぁ…」
呆れた医者はカルテを机に放り、椅子から立つと俺の肩を叩いた。
「一人でええな。」
「そんな…、心細い…」
「俺かて眠いんやて…」
明日もあるからと医者は白衣を揺らし、電気迄消された。一気に薬品の匂いが濃く為った様で、腹の痛みは治まらなかった。
数分程すると痛みは段々と和らぎ、釣られる様に睡魔も来た。
「俺だって明日は大学だよ…」
申し訳程度な厚さの布団を肩迄掛け、欠伸を噛ました。数回口元を動かし、瞬きに合わせる様にスリッパの音が聞こえた。何だ結局横に居てくれるのでは無いかと、期待膨らませ上体を足音に向けた。
然し、姿を現したのは在の医者では無く、昼間見た青年であった。
「嗚呼、未だ、起きてはりました?」
か細い消えそうな声は、アルミニウムの洗面器を置く音に消された。良く響く水音、額に触れたタオルの冷たさに肩を揺らした。
「顔、拭きますね。」
「云ってから、拭いて下さい…」
青年は唯薄く笑い、トントンと叩く様にタオルを動かした。
「駄目ですよ?欲望に負けたら。」
「え…」
頬に触れる青年の息遣いにどきりとし、顔を見たが、矢張り薄く笑って居るだけであった。
昼間見た時、何と色の白いと思い、仄暗い中では白さよりも一層な端麗さを俺に教えた。
「気を付けます…」
「はい。」
青年はタオルを離し、洗面器で洗った。そして今度は手を掬い、一本一本丁寧に指を拭いた。
俺の手が大きい訳では無く、極端に青年の手が小さいのだなと、絡む指の細さに瞬きを繰り返した。
「有難う。」
「御休み為さい。」
俺の手を静かに布団の中に収めた。其の手の離れる刹那、息苦しさを感じた。
京都の景色の一つであれば良いと感じた青年を、自分の景色の一つにしたいと、俺は欲を持った。
洗面台に水を流す音、タオルの皺を伸ばす音、揺れる細い後ろ姿を眺めて居た。そして俺を見る事無く、青年は二階に消えた。
一緒に居た数分は、昼間の様な短い時間に感じた。
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