切り取られた風景(前)


年末の公演会に向けて隆臣は多忙を極めて居た。大学は伝統音楽を専攻し、三味線を弾いて居る。毎日基礎を数時間し、日曜には宴会前の芸者に稽古を付けて貰う等、見た目とは反した真面目さを見せた。一方恋人の美奈子は流行りのジャズに魅力され、サックスの音色を揺れる髪に乗せて居た。
腹痛を起こしたのは一ヶ月前、師走に差し掛かった多忙の中でふと、侑徒の事を思い出した。酷使した指先は本の気の緩みで弦に切れた。手当てを受け、嗅いだ消毒液の匂いに、すっかり挨拶に行くのを忘れて居た事に気付いた。
侑徒はもう、自分の事を覚えて居ないかも知れない。
不安を吐く息に乗せ、途中で買った茶菓子の袋を揺らした。
「京都の冬は、寒いね。大阪や神戸はそうでも無いのに。」
相変わらずの独り言を繰り返し、鼠色した空から落ちる小さな雪に目を瞑った。
今日は休みなのか、単に午後休診なのか、橘診療所、診察時間午前捌畤カラ午後玖畤迄、と朱色で書かれた硝子窓とレースのカーテンの間には、休診中の札が下がって居た。日に半日以上も働くとは、個人院にしては豪く真面目な医者だなと隆臣は息を漏らした。見た所、診療所と家は一体の構造で時刻は六時、騒音宜しく叩けば誰かが気付くだろうと硝子を叩いた。
「休診中失礼致します、橘先生は御在宅でありましょうか。」
冷たい空気は容赦無く隆臣の暖かい口内を乾かし、二三度呼んではみたが反応は無かった。硝子から手を離し、紙袋の持ち手を腕に掛けた侭コートのポケットに入れた。生菓子では無い為明日でも良いだろうと踵を返したが、来た時には無かった車が一台、隆臣の行く手を阻んで居た。こんな道一杯の場所に車を付けなくとも、曲がる手前の大通りで停まれば良いでは無いかと、民家の塀と車の間を抜けた。其れを待って居た様に車は動き、診療所の前に停車した。開いたドアーの間には雪が落ち、革靴の光沢に重なる。先ず右の靴先から地面に付き、両足が上品に地面と面した。
車から出た足は独特の生地に包まれ、此れは主に学生服に使われて居る生地だと隆臣は判った。
此の診療所に用のある、学生服を着た男子。
在の時みたく、外を伺う様に顔を出す横顔に、隆臣は立ち尽くした。
「御父さん、居てるかな?」
「午後休診やろう。遊び行ってるて、兄さんの事やから。」
「ほんなら居て無いか。」
おどおどと家を見上げて居た侑徒の目には安堵が溢れ、漸く車から降りた。余程在の父親が怖いのだなと、吐いた白い息を抜けた。
「今晩は。」
今日はかな、とも思ったが、日が落ちて居るので良いだろうと隆臣は笑った。行き成り湧いた声を父親と間違えた侑徒は身体を強張らせ、肩に掛かる鞄紐を両手で掴んだ。
「あ…」
見えた姿は父親では無く、又安堵した侑徒は手を離した。
「ええと、吉川さん、でしたっけ…?」
「そうです、吉川。先日は、とは云っても随分と前に為ってしまいましたが…」
ポケットから手を出し、腕に掛けて居た紙袋を侑徒に差し出した。
「有難う御座居ました。そう先生に、御伝え下さい。」
「態々御丁寧に、痛み入ります。」
受け取った紙袋に頭を下げ、ほんのり芥子色した和紙に流れる侑徒の漆黒の毛先。庭園の流水紋を彷彿させた。
「叔父さん、おおきにな。」
紙袋をがさりと其の侭重力に従わせ、運転席に顔を覗かせた。
「兄さん居て無いからて、遊んだらあかんでぇ。」
「余計な世話や。」
運転席に顔を突っ込んだ侑徒の笑い声、初めて聞いた。云ってもこうして顔を合わせたのは二回目なので、初めても無い話だが。
挨拶にしては豪く長いなと、学生服の黒さに雪の白さが映え始めた時、雪は払われた。
「愛してんで。」
「叔母さんに云うで…ほんま…」
「おお怖、帰ろ。」
複雑な顔で口元を隠す侑徒、微かだが頬に赤みを見せて居た。
診療所と家の門は別で、家に繋がる門の前で侑徒は顔を横に流した。
「未だ、何か…」
帰ったとばかり思って居た隆臣に侑徒は怪訝な顔を向け、陰湿な目を見せた。
「失礼、帰ります。」
別れの挨拶が未だであったので隆臣は其処に居たのだが、侑徒には其れが鬱陶しく思えた。用が済んだのならさっさと帰れと伝える目は、京都人特有の陰湿さを孕んで居た。
「寒いですので、御身体大事に。」
「はは、馬鹿は風邪引きませんから。」
「鍋の美味しい季節に為りましたので。」
「はは…、肝に命じて於きます…」
そっちの意味かと、食い意地の張った奴と勘違いされた隆臣は、此の空気に似た笑いを見せた。
車を降りた時には気付か無かったが、玄関に向かう侑徒の後ろ姿に違和感を覚えた。左足を引き擦って歩いて居る様に見えたのだ。
「あの。」
「未だ何か。」
態々こんな道幅の狭い場所に車を付けた理由が判り、隆臣は云った。
「運びましょうか?」
「何を?」
「貴方を。左足を庇ってらっしゃる様ですので。」
受けた指摘に侑徒は紙袋を地面に落とし、「結構です」と家に入って行った。飛石に落ちた紙袋に隆臣は声を漏らし、寒い中態々下宿先を通り越して迄来たのにと、ベルを鳴らした。
「一寸御前っ」
侑徒の姿が無かろうが隆臣は喚いた。
「人が持って来た礼をっ」
然し侑徒は中々現れず、変わりに二階の窓が開く音がした。
「未だ居てたんかっ、帰れやっ。俺忙しいんやてっ」
此処が俺の部屋です、如何ぞ此方に向かって喚き為さいと云わんばかりに窓から姿を現した侑徒は、一度姿を窓の下に消すと隆臣目掛け教科書を投げ付けた。当然、使い込んだ湿気を大量に含む教科書は紙袋の近くに落ち、ならば此れは如何だと辞書を投げ付けた。隆臣の手が乗る門に辞書は激突し、角はかなり変形した。
「あ…っぶないだろうがっ」
「次は何がええ?国語か?英語か?数学かっ」
云った割に飛んで来た参考書と教科書は生物であった。ばさりと地面で開き、見ただけで蟀谷が痙攣しそうな細かい文字に隆臣はベルを鳴らし続けた。
「何故母親が出て来ないっ」
主婦ならば確かに居る時間帯であるのに、気配は無い。そうか院長夫人のブルジョワかと、母親への希望は捨て、門から外に落ちた教科書を拾った。
「学生が教科書を粗末にするなよっ」
「自分が早ぅ帰ったらええだっきゃろうがっ」
此れが最後の警告だと、飛んで来た分厚い問題集は隆臣の足元地面に直撃した。がばりと地面に表れた摩訶不思議な文字の陳列を隆臣は慌てて閉めたが、其の表紙に鳥肌を覚えた。
「てっ、てっ…、帝國医大…っ」
名前を聞くだけでも恐ろしく、なのに触ってしまった隆臣は、其れを消す様に手を振った。
「しまっ…た…、あかん…っ」
興奮で赤く為って居た顔は真っ白に為り、窓から姿を消した侑徒は、暫くすると猪の如く玄関を開き、靴下の侭其れを拾いに行った。門迄に散乱する紙袋や教科書は蹴散らされ、問題集を引っ掴むと濡れた冷たい地面に座り込んだ。
「すんません、すんません…。落とさんといて下さい…」
選りに選って一番受かりたい帝國医大の問題集を地面に激突させた。変形した角を必死に正し、鼠色の空に向かい問題集を掲げ、必死に頼み込んだ。秀才の行動は判らんなと隆臣は、開いた門から中に入った。
「ほんま御願いします…、落とさんといて下さい…。俺には此れしか無いんです…」
御願いしますと、御天道様は出て居ないが御天道様に何度も頭を下げた。そんな哀れな侑徒の姿を横目に、拾い集めたかなりの重量の教科書を玄関先に置いた。きちんと其の横には紙袋を置いた。本の少しの距離を運んだだけで手先は痺れ、其の重さ分を侑徒は頭に叩き込んだのかと、秀才と馬鹿の容量の違いを痛感した。
「ほら、教科書部屋迄運んであげるから。」
「時間無いのに…、最後の最後に俺は…」
必死に頼む暇があるなら勉強すれば良いのに、と暢気に隆臣は考え、こんな寒空の下にずっと居る程が、其れこそ風邪を引いてしまう。頭があれば「見てあげるよ」と云えるが、生憎隆臣にそんな頭脳は持ち合わせて居ない。前世は三味線だったのだろうと云われる位三味線を弾く事しか才能が無い。
隆臣の不安通り、冷えた身体は痛めて居た左足首に鈍痛を走らせた。地面から立たせると学生服のズボンは濡れており、抱いた肩に伝わる侑徒の冷たさに手を離した。
冗談では無く風邪を引く。問題集だけでも此の有様、風邪を引けば発狂してしまうのでは無いかと隆臣は身震い起こした。
其の姿を想像したのだ。すると不思議な事に、三味線の激しい音が聞こえた。
又一度侑徒の身体を歩き易い様に支え、然し放心する侑徒の足に力は入らず、あっちぶつかりこっちぶつかりで漸く部屋に入れた。如何にもな受験生の部屋では無く、全く生気を感じない。壁一面に並ぶ教科書や参考書には狂気を感じた。侑徒の部屋と云うよりは、侑徒が此の教科書等の空間に放り込まれて居ると云う異様さがあった。
「殺風景だね。」
ベッドに腰掛け放心状態で床を見詰めて居た侑徒は顔を上げ、部屋を見渡す隆臣に鼻で笑った。自分の部屋に父親以外の人間が居る事が不思議で又異様、殺風景と隆臣は云うが、此奴は部屋に一体何を求めて居るのか判らない。
「勉強しか、しないので。」
侑徒は云うが、隆臣は違う虚無感を此の部屋には感じて居た。
隆臣にも又其の友人達にも受験時期はあった。けれど其の時でも部屋は、受験生特有の活気があった。侑徒の部屋には其れが無く、唯の空間が広かって居た。壁一面に並ぶ本棚は侑徒の頭の中、此の部屋は侑徒の心の中に隆臣は感じた。
「君さ。」
見下ろす隆臣の目を直視出来ず侑徒は逸らした。
「人生楽しいの?」
「は…?」
考えた事も聞かれた事も無い言葉に、そら御前みたく三味線弾いて食べ過ぎで腹痛起こす様な奴は楽しい人生だろうよ、と冷めた目を向けた。
「此れから、楽しくなるんです。だから帝國医大に受からないといけないんです。」
「東京って其処迄良い所じゃないよ。」
「京都から離れられるなら場所何か何処でも良いんです。でも如何せ離れるなら地方の医大じゃなくて帝國医大に行きたいんです。」
「何で医者に成りたいの?」
「何で…?」
捲し立てる様に話して居た侑徒は口を閉ざし、隆臣の言葉を聞いた。
「俺は伝統芸能が好きで、其の中でも能楽の囃子が好き。だからもっと能楽の世界を知りたいし、三味線を弾く。でも君は、俺の主観だけど、目的が無さそう。何もする事が無いから医者に成るって感じ。まあ其れで成れそうな君も凄いんだけど…」
「そんなん、俺の勝手やないか…」
「確かに君の人生だから俺には関係無いけど、俺の経験上、目的が無いと受からないよって事。」
幾ら御天道様に頼み込んでも、暖簾に腕押しだろうと分厚い参考書を捲った。隆臣の周りにも目的無く、其の大学に入れば安泰はあるだろうと云う考えだけで大学を選んだ奴が居る。そう云う奴は決まって落ちるか、受かっても人生の意味が判らず苦悩する羽目に為る。
侑徒が帝國医大に行きたい理由は判った、然し医者に成る理由が判らない。其れで医者に成ったとしても、侑徒に在の父親みたく立派な医者には成れない。
「君の御父さんってさ、凄く有名だよね。俺聞いたんだけど、西の近衛清十郎って云われてるんでしょう?」
隆臣の口から出た医学界に君臨する男の名前に侑徒は小さく悲鳴を漏らした。震えを覚えた手で口元隠し、何故在の父親がそんな存在の医者と同等扱いなのか、嫌う理由の一つでもある。
「近衛医師(センセェ)は、医者を目指す人間の憧れや…神様や…。私欲の為に人間を育てへん…。あんな男と一緒にすなや、罰当たりっ」
隆臣にして見れば、そんな医者と同じ位君の父親は偉大な存在では無いかと褒めた積もりであった。然し侑徒にして見れば、近衛に対する最高の侮辱であった。
侑徒の凄みに呆気に取られた隆臣は間の抜けた声を漏らした。近衛を引き合いに出したのは、身近に居る父親を目標に持てば少しは受かる希望があるのでは無いかと云う意味を含めて居た。
「近衛医師が目標なの?」
「阿呆か自分…、痴がましい…。大体医師は外科医やないか…、こっちは内科医や。」
「君、内科医に成りたいの?」
「本当は、ちゃう…。せやかて俺が成らへんかったら、潰れてまうもん…」
「ふぅん。」
侑徒は抑医者に成りたい訳では無いのだなと完全に知った隆臣は、侑徒の横に座り、顔を覗いた。
「医者じゃ無かったら、何に成りたい?」
医者以外の選択肢を与えられた事も考えた事も無い侑徒は驚いた顔を見せた。
「視野が狭いよね、君。友達居ないでしょう。」
「余計な世話やっ」
友達等居た試しの無い侑徒は図星に気分悪くし、ベッドから立ち上がると勉強机の椅子を引いた。
「感受性無いし、でも自分の意思も無いし。ねえ本当に、人生楽しいの?」
「せやから今から楽しゅうなるゆうてるやろっ」
「いやぁ、無理だな。一生詰まんないと思う。」
「うっさいなあっ、帰れやっ。」
御前の考え通りにはいかないと侑徒は机一杯に教科書を並べた。然し隆臣の帰る気配は無く、あろう事かベッドに寝転がり侑徒を眺め始めた。
「何、してはんの…」
「君の観察。三味線弾こうか?優雅な気分で御勉強。」
「嗚呼っ、うっさいわっ。」
「ねえ。」
「何やのっ、邪魔しなや自分っ」
「友達に為らない…?」
馬鹿は思考迄馬鹿なのかと、侑徒は鉛筆を机に置くと三味線を持った。
「帰らな此れ捨てるで。」
「止めろよっ、命より大事な物をっ」
「ほんなら折ったるわっ」
ケースから出そうとした侑徒から隆臣は三味線を奪い取り、しっかりと抱えた。
「友達は大事にしろっ」
「友達ちゃうわ、早帰れ。」
「君の名前はっ」
「は?侑徒やっ」
「はい侑徒君っ。名前を知ったから俺と侑徒は今日から友達っ」
「ふざけなや自分っ」
此れ以上此処に居れば自分にでは無く三味線に被害が来ると嫌でも知った隆臣は「又ね」と部屋から逃げた。
「何が又ねやっ、二度と来なやっ」
門を過ぎる隆臣に窓から叫び、予定を完全に狂わされ事に怒り狂った。こんな無駄な一時間を過ごした事は無いと机を叩き、然し何処かでこんな短い一時間を過ごした事は無いと感じた。




*prev|4/9|next#
T-ss