切り取られた風景(前)


友達に為る、とは実際云った隆臣だが、年が変わっても侑徒に会う事は無かった。年末の公演会が終われば今度は春先に行われる練習に動いて居た。在の侑徒の事だから会いに行っても無視をされるのは目に見える。友達に冷たくされると云うのは非常に辛い事で、態々会いに行かなくとも良いと隆臣は考えた。
「頭痛い…」
下宿先の部屋で食事して居た美奈子は、洗い物の最中にそう呟いた。
「何か、寒くない…?」
濡れた手を拭き、腕を摩る美奈子に、隆臣は三味線を置き近付いた。首筋に手を置くと、普段より熱い温度に首を傾げた。
「風邪かな。」
「困るよ…」
隆臣の在籍する科が公演するのと同じに、春先に行われる演奏会は音楽学部全てが行う、所謂新入生歓迎会である。流行りなだけあり美奈子の居る軽音科のジャズは目玉に為って居る。
「引く前に見せ様か。」
美奈子が居なければ成り立たないと云われる程、軽音学科での美奈子の存在は大きい。風邪を引かせました等と為れば、学科全員、教師からも隆臣は非難される。其れだけは嫌だと渋々頷いた美奈子を連れた。
下宿先から一番近い病院は橘診療所、送りがてら美奈子の住むアパートメント付近の病院でも、当人である美奈子の好きにさせた。帰るのが少し怠いと、結果美奈子は橘診療所を選び、隆臣の下宿先に泊まる事を決めた。下宿先の奥さんに、今日美奈子が泊まる事を伝え、夕食は出来れば饂飩にして欲しいと我が儘を云った。嫌がる素振りも無く、快く頷いて呉れたのが隆臣には有難かった。
部屋の中では練炭を焚き、春先だから構わないだろうと其の感覚で出た二人は余りの寒さに一度部屋に戻り、冬の名残を感じる道を歩いた。診療所の門脇には梅の蕾が固く閉じた侭姿を現して居た。矢張り時期的には未だ冬なのかと、入った診療所の暖かさに二人は暑さを覚えた。
待合室には三人、年寄りが離れた場所から会話をして居た。温度差には堪えるね等話して居る間に座るのは忍び無く、けれど其処にしか二人が並んで座れる空間は無かった。二人がソファに座ると一旦年寄りは口を閉ざし、然し二人が無言で床を見て居ると又話し始めた。
今診察中の患者が余程話し込んで居るのか、五分しても次の患者が呼ばれる事は無かった。一時間は待つんじゃ無かろうかと隆臣は、個人院特有の患者と医者の馴れ合いに目を上げた。美奈子に至っては同じ体勢が辛いのか、膝を抱える様に俯いて居た。
「うち等からしたら、なあ?」
年寄りの一人が云った。
「読み書き出来るだけでも凄いやんなあ?」
「せやせや、うち等の時代はなあ。」
「うち等の子供世代に為るとそら当然やけどなあ。」
「先生ぇはほんま、何が気に食わんのですやろ?贅沢やわあ。」
年寄り達は娘時代に戻った様にからからと笑い、診察室から現れた姿に口を閉ざした。貝が一斉に殻を閉じた、そんな感じであった。
「横山さん、聞こえてますよ。」
透き通った硝子の様な声に隆臣は天井から目を戻し、近付くスリッパの音を耳に入れた。此れはパーカッションが調子を刻んで居る様な音であった。
「横山さん達、ほんま御免為さい。先に其方の患者さんから診てもええかな?」
細長い腕が美奈子に向けられ、次の患者であろう横山は視線を流した。
「ええよぉ、侑徒はんがゆわはるんやぁ、従うわぁ。」
年老いても尚女、其れを隆臣は痛感した。美奈子よりも自分が診て貰いたい程、気分の悪さを感じた。
「ほんなら甘えさせて貰うわな。原口さん、御待たせしました。」
小さく白い手が美奈子の肩を数回叩き、少し眠って居たのか、美奈子は充血した目を上げた。
美奈子には妙な癖があり、人の無数の声に睡魔を覚える。年寄り三人の其れもゆったりとした口調は美奈子に本の少しの夢を見せて居た。
「何…?」
「美奈子、付いて行こうか?説明出来る?」
自分が病院に居る事を思い出した美奈子は目を擦り、数回頷いた。
「足元、気を付けて下さいね。段差ありますよ。」
「もう怠い…」
早く済ませて眠りたいと全身で表現する美奈子に隆臣は心配を強くさせ、体温計を咥え溜息と共に座った美奈子の後ろに立った。
前の患者のカルテを書き終わり、新しいカルテを侑徒から受け取った橘は美奈子に向いた。
「原口はんな。うわ、別嬪はんやなあ。俺の血圧、上がるわほんま。」
向いた橘は美奈子のハイカラな姿に笑い、其の後ろに立つ隆臣に視線を向けた。
「何や?自分。豪い男前やな。吃驚した。」
「説明者です。」
「保護者やのぉて?」
美奈子から体温計を貰った橘は示された体温に眉を上げ、カルテに其れを記した。そして一旦手を止め、隆臣に向いた。
「在の時の自分か。欲望に負けた坊主。」
「そうです。其の節は御世話に為りました。時間外にも関わらず診て頂いて。」
頭を下げた隆臣に橘は体温計を振り、消毒液の入る試験管に入れた。
「気にしなやぁ、子供とかな、よぅ来よるんや。其れこそ大事やで、腹痛何てもんや無いからなぁ。」
橘はからかう様に口角を上げ、そして美奈子の手首を持った。
「診察代も御取りに為らずに。」
「ええて、あんな診察の内に入らんもの。」
美奈子の長い爪を眺め、親指を三秒程押して居た。隆臣とこうして会話をし乍らきちんと熟す橘の技量に改めて隆臣は感心し、そして、何がそんなに嫌なのかと侑徒の気持を考えた。
「ほんで在れな。」
「在れ?」
美奈子の下瞼を開き、右腕と顔だけをカルテに向けた侭橘は続けた。
「美味かったわ、おおきにな。」
渡した礼の事だろうと隆臣は悟り、橘が聴診器を持ったので以上の言葉は慎んだ。椅子が一回転し、喉を診た橘は頷いた。
「少し腫れてはるわ。」
二人の予測通り美奈子は風邪であった。
「温度差が激しいからなぁ、しゃぁないわ。然しなぁ。」
机にきちんと身体を向けた橘は息を吐いた。
「やっぱ東京の人間はちゃうんかなぁ。」
カルテに処方を書き乍ら、又息を吐いた。
「引き始めによぅ来れたなぁ。」
「其れは…」
東京の人間は図々しいな、引いてから来いと咎められて居る様で、隆臣は数回瞬きをした。
「風邪で寝込まれたら困る状況でして、引く前にと…」
「いや、違うんや。引き始めに来るんが普通は正しんや。そら此処は病院や?治すんが当たり前やけど、病気にさせんとも医者の仕事や。普通判るもんやで、風邪かなぁて。何で発症してから来はんねんやろ、判らへん。一番治し易い時期に来はったら自分かて苦しまんとええのに、なあ?」
橘の問い掛けに隆臣は「さあ」と首を傾げ、頭を下げた美奈子の手に飴を一つ乗せた。本来なら子供にしか渡さない生姜飴らしいが、美奈子が奇麗だからと云う理由で橘は渡した。侑徒はそんな父親の姿に呆れた様に顔を逸らし、顔を合わせ無い侭カルテを受け取った。そして其の侭「原口さん終わりました」と看護婦兼受付である母親にカルテを渡した。本来ならば、看護婦である母親がする事柄だが、母親は待合室に居る年寄りと談笑して居る。そして美奈子の診察中来たのか、小学生の女子が身長計で身長を測って居た。診察室から其れを覗いた隆臣は、何て自由な病院だろうかともう一度橘に頭を下げた。
真面目な医者なのかそうで無いのかも曖昧に為り、侑徒が橘を尊敬しない理由が少し判った気がした。
橘は、医者としては尊敬出来るが人間としては無理、息子である侑徒が其れを証明して居た。在の時比較に出した近衛は、医者云々より人として絶大な信頼と尊敬を持たれて居る。
――あんな男と一緒にすなや、罰当たり。
診察室から一緒に出る侑徒に視線を向けた。
「横山さん御待たせ、入ってええよ。」
張り付いた様な薄い笑みを向ける侑徒に寒気がした。今度は侑徒、一緒に其の横山とは診察室には入らず、受付に居た母親が丸で暖簾に風が通った様に動いた。そして身長計で一生懸命自分の身長を測る少女に近付き、静かに計りを下ろした。
「おおきになあ、侑徒兄ちゃん。」
「ん?ちょこっと伸びてるんと違う?」
「ほんまあ?七海なあ、今一番後ろ何や、男子よりも高いんよ。」
「嗚呼、嘘やわ。見間違いや。」
「もぉ、何やの?其れっ」
身長計から飛ぶ様に侑徒の身体に攻撃を仕掛け、其れを受ける侑徒。
――内科医に成りたいの?
――ほんまはちゃう。
「似合い過ぎだろう。」
少女に向けられる侑徒の笑顔に隆臣は顔を逸らし、肩に乗る美奈子の頭に頭を重ねた。
「何?」
「独り言。」
「隆臣、独り言の癖止めたら?不気味だよ。」
「俺が不気味なのは、今に始まった事じゃないじゃん。」
肯定する様に美奈子は息を吐き、若しや在の横山が終わる迄処方して貰えないのではないかと、美奈子は諦めを混ぜた目で侑徒を見た。
初めて見た時、何と云う京都美人であろうかと思った。隆臣は“彼”と云ったが聞き間違いで女だと信じ其れは今迄続き、横山が“侑徒はん”少女が“侑徒兄ちゃん”と云った事で男と判った。病人の自分より弱々しい侑徒が、隆臣と同じ男であるのが不思議で堪らない。侑徒の性の困惑をより強調して云うならば、女である自分より余程女らしいのだ。日本古来の奥床しい才女、詰まりは自分の母親世代の女に見えた。
「小児科の先生ってあんな感じだよね。」
優男とは侑徒の様な男を指すのかと、少女に向ける笑みの柔らかさと云ったら無い。
「外科医であんなのが出て来たら不安に為るよね。」
「判る判る。貴方大丈夫なの?本当に貴方が執刀するの?って聞きたく為る。」
不届き千万、侑徒に聞こえて居ないのを良い事に二人は笑って居た。此の笑顔の裏、詰まり張り付い笑顔にある真意を隆臣が知るのは、梅の花が薄れ、桜が存在を主張し始めた三月の下旬の事である。




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