切り取られた風景(後)
掛け布団の中から出た片腕は、枕元の目覚まし時計を掴んだ。引き寄せ、「今何時」と云う前に廉太郎は遠くに遣った。
「あかんて。」
「床の上で時計見る何て、色気無いわな。」
「八時迄に帰らなあかんのやて。」
「もう頼むし、云わんとってな。」
「あかんて。」
「見たら叔父さんとこ帰ってまうやん。」
掛け布団から出る色白の腕は紋白蝶の羽みたく揺らぎ、時計を探す。其れをやんわりと布団に引き戻した。
「あ…、あかんて…」
羽化寸前の蛹の様に丸まる布団は蠢き、左右に伸びた腕、ゆっくりと繭から身体を侑徒は出した。くったりと腕は湿り、髪は背中に張り付いて居た。飛ぼうとするのか、其の蝶は、大きく髪を払った。
「ほんなら帰るわ。」
廉太郎に背を向けた侭身支度済ます侑徒は、文字盤を畳に付けた目覚まし時計をひっくり返し時間を見た。
「阿呆、怒られるやないの。」
「未だ六時前やないの。」
廉太郎の家からは一時間掛かるか掛からないかの距離、後三十分は居られるだろうと聞く廉太郎だが、侑徒はゆるりと口元の黒子を動かすだけであった。
畳に落ちる長着を布団に引き寄せた廉太郎は腕を通しただけで帯は締め無かった。布団から出る事もせず、虫取り網があれば良いのにと侑徒を眺めた。
鞄を肩に掛け、敷布団に流れる廉太郎の柔らかい髪を手にしっかり伝えると唇同士を重ね、そっと手を離した。
「ほんならな、廉。」
「一緒に朝日見てみたいなぁ。」
「一生無理。」
「冷たぁ。」
離れた唇からは感情読み取れず、襖が閉まった。枕に鼻を埋めてはみたが侑徒の匂いは全くしない。自身の愛用する油の、花の微かな匂いしかしない。布団の何処からも侑徒の匂いは無く、きちんと置かれた目覚まし時計を見た。
嵌め込まれるプラスチックに反射する影が揺らぎ、廉太郎は襖に向いた。
「何?忘れ…」
「何も、俺はね。」
縁に頭を乗せた侭隆臣は云い、誰と間違えた?、口角を引き攣らせた。ばっと口内が乾き、喉は痛い程張り付く、唾液で潤そうにも喉を矢鱈動かす事しか廉太郎には出来なかった。
「いいやぁ?」
布団の中に帯があったのは都合良かった。素早く締めると眼鏡を嵌めた。
侑徒と鉢合わせたか、いいや待て、廉太郎は二人の行動を思い出した。隆臣は決まって店から入り、侑徒は律儀に玄関から出入りする。鉢合わせは無かったと安堵出来たが、首筋は嫌と云う程湿った。
「何か用か?」
「河豚の事、聞きたいんだけど。魚屋の倅さん。」
「河豚の時期ちゃいます。」
「そう。でも、御前は食べたんでしょう…?」
何処で仕入れたの―――。
縁から頭離し、隆臣はしゃがみ込んで廉太郎を見た。
「侑徒から手を引いて。」
「は?何で。御前のもん違うしな。」
ゆらりと紫煙燻らし、青白い煙越しに廉太郎は笑った。
隆臣自身も意味不明な事を云って居るのは理解して居る。自分には美奈子が居る、男を好きに為る性癖は無い、侑徒の恋人で無ければ叔父の様な保護者でも無い。廉太郎と侑徒が付き合って居様が不誠実な関係であろうが当人達の問題であり自分に口出す権利は無い。
友達、侑徒は友達…。
何度も自分に云い聞かせた。
「行き成り、行き成り横から掻っ攫わないで…」
「離しなや。」
掴んだ衿元から見える赤さ。笑いも出無かった。
「河豚の毒に遣られた?へぇ、赤い斑点が出来るんだ…?」
呻く隆臣にばつ悪そうに廉太郎は舌打ち、荒く胸元を隠した。
「出て行きな。こんなんで、御前との間に亀裂作りた無いわ。」
「侑徒から手を引けば良いだけでしょう…っ」
「無理やしな。」
「簡単じゃないっ」
「俺、侑徒に惚れてるしな。」
外方向いた侭云う廉太郎の顔は白々しく、全くの出任せであるのは判って居た。強く歯を擦り合わす事しか出来ず、ふと目に止まったリボンに手を伸ばした。
「此れは、返して貰うから。」
「嫌。侑徒が呉れたんや、此の先無いもん。」
「俺が侑徒にあげたの。元は俺の。」
「…好きにしたら…?」
廉太郎とて、隆臣との友情を壊す訳にはいかなかった。たった一人の女の所為で男同士が喧嘩をする等小説の中だけの話かと思って居た。女なら未だ「昔此奴と女取り合うたん」と十年二十年後笑い話に出来るが、男を取り合ったは洒落に為らない。
廉太郎は溜息吐くとやんわりと隆臣の手を握った。
「隆。隆臣。」
「何…」
「云う相手、違うんちゃうん。」
「は…?」
「手ぇ引けて、ほんまは自分に云いたいんと違うか?」
馬鹿にする訳でも無く廉太郎は笑い、興奮した隆臣の気を鎮める様に何度も手を叩いた。
「御前が侑徒を選んだら、俺は手ぇ引くよ。」
「選んだら…?」
「美奈と侑徒、どっちかにしぃ。欲張りは、破滅すんで。」
興奮する所為でか廉太郎の手は矢鱈冷たく感じた。此の手が侑徒に触れ、侑徒を熱くさせる。琴を弾く時みたくうっすら笑みを蓄え、侑徒を奏でて居る…。其れが何故自分で無いのか、廉太郎を恨み、そして羨んだ。
「俺と廉太郎の、違いって何…?」
同じ男じゃないか、男で良いなら自分でも良いじゃないか、何故廉太郎なのか、隆臣は考えた。
「侑徒、ゆうてたよ。」
「何て?」
「何で隆臣と友達に為ったんだろうて。」
侑徒の代わりに気持を伝えたが、隆臣は悔しそうに顔を歪ませた。
考えれば始めから疎まれて居た、自分を選ぶ筈無いでは無いか、何を自分は誤解して居たのか、侑徒の言葉を全く逆に捉えた隆臣は天井を見上げると下唇を噛んだ。
好奇心で止めて於けば良かった気持を恋心に変えたのは隆臣本人で、今更どんな顔して侑徒に会えば良いのか、気付いた自分の気持は涙と為って溢れ出た。
「俺、侑徒が好きなんだ…」
暖簾からひょっこり顔を出した侑徒を思い出した。薄く笑った口元に背徳感を知り、突風が身体を走った。
「如何し様、侑徒、男だよ…」
美奈子みたく結婚の約束を出来る訳でも無し、こんな気持に気付くんじゃ無かったと、行き着く先の無い不毛な恋を全身で感じた。
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