切り取られた風景(後)


七時少し前に帰宅したが、叔父は家に居た。居間には居らず、庭の見える座敷に腰を落として居た。黒光りする革のシングルソファにゆったりと身体を倒し、眼鏡を掛けた侭眠って居る。
叔父は老眼である。詰まり何かを見て居た。然し周りには其れらしい物は見当たらず、叔母に呼んで来る様云われた侑徒は身体を揺らした。
びくりと肩揺らし、肘置きに置いて居た腕は落ちた。
「…何や、侑徒か…。何時、帰って来たんや…?」
欠伸殺し、叔父は微笑んだ。
「今。遅く為りましてすんまへん。」
侑徒の口から出た言葉に、叔父は訝しさを感じ取った。
最近、本当に最近から、侑徒の口調が荒く為った。今迄であったらきちんと「御免為さい」と云う所が、豪く砕けて居る。大学には多様な年齢が居る。侑徒と同じ十代も居れば、今更何の役に立てるのか不明な齢も居る。感化されたかと叔父は歎いたが、良く良く考えると、侑徒から直接、気味悪がって誰も近寄らない、大学に友達は居ないと云われた。聞き流しで覚えたのなら、遠の昔、高校生の頃に口から出す筈である。
「侑徒、最近、口悪いな。在の東京人に感化されたんか?」
老眼鏡を外した叔父は目薬を注し、目を暝った。叔父は目覚めると、目薬を注す習慣がある。こうすると目が覚めるそうだ。
「そうかなぁ。」
余り考えず物を云う為、口調等気にした事は無い。然し叔父がそう云うのだからそうなのだろうと、気を付けると目尻に溜まった目薬を拭いた。
「キスしてな。」
「後でな。ほら、行くえ。」
「後て?何時?」
何方が子供か判らない。
夕食は手早く侑徒は済ませた。叔母と一緒に居るのが居た堪れない訳では無く、休み前にある試験の為勉強する。未だ七月にも為って無いやないかと叔父は云うが、高校生迄一貫して首席の男は「そろそろやなあ」「始めよかあ」で始める人間では無い。幸い、試験等と風変わりな事をする講師は数学だけで、後の項目は休み期間中に出される小論文や課題で、前半の評価は決まる。
「数学か、侑徒得意やし、頑張りな。」
「云われんと。」
数値で表されるテストは何れ程楽か。厄介なのは小論文である。課題は一定の基準ある為、テストと変わりは無い。なんせ、出された物をし、評価されるのだから。
小論文程、苦手な物等無い。小学生の頃の観察日記、捕まえた御玉杓子の観察日記を付けた。一日忘れると翌日は何だ、足があるでは無いか。一昨日の日記には未だ手足は無い。其れが行き成り、足が生えました、では都合悪い。昨日の御前は一体どんな姿だったんだ、と丸い頭に尾を揺らす変態中の奴に聞いた。暇ちゃうねん、と結局放り出し、観察して二十日程で「猛暑ニ依リ“崩御”」と書いた。勿論此れが許される筈無く、ノートの表にでかでか「丙」と書かれ、父親からは「崩御とは何事や」「丙で当然や」と拳骨喰らった。実際本当に(世話放棄の為)死んで仕舞ったのだから間違いは無いが、教師も父親も“崩御”と軽々しく乱用した事に憤慨して居た。侑徒は其の頃、未だ良く“崩御”の意味を知らなかった。叔父に云うと「そらあかん…」、矢張り渋い顔で云われた。
其れを夜、暫く連絡は無理と、連絡した隆臣に云ってみた。電話口の隆臣は豪快に笑い、「蛙に崩御は良かったね」と暫く笑い声を聞いて居た。
隆臣は、在れは四年生の頃、両親の観察日記を付けた。毎日変わらないので、楽だったと云うが、そんな実態を教師に知られた両親は顔から火の出る思いだった。
七月の終わりに猛喧嘩をし、皿を何枚割った、花瓶が割れた、母親は泣き喚き、父親は一週間帰らなかった―――。
母、暑サニバテル。父、帰宅セズ―――。
伊豆ニ旅行。父、嵌メヲ外シ母カラ叱ラレル―――。
一日に二三行で終わり楽、味をしめた隆臣は翌年も同じ観察日記を付けた。然し翌年は一年の成長、事子細に書き、父親にしこたま怒られたと云う。けれど、こんな細かい所迄子供は見て居るのだと、両親と子を持つ教師に戦慄を覚えさせた。
二人は互いの馬鹿さに笑い、よぅく耳を澄ますと、豪快に笑う隆臣の声の後ろで、何か金属音がした。工場にある様なあんな騒然とした音では無く、ピィインピィインと本当に小さく聞こえる。軽い何かが落ちた時に反響する音にも似て居る。一旦音に集中して仕舞うと、もう以降は隆臣の声等上の空だった。
堪らず侑徒は聞いた。
「さっきから其れ何?」
『何っ?何…?』
一回の「何?」は、反発する様な「何だと」と怒り孕んだ強い声で、二回の「何?」は疑問の「何ですか?」と云う物である。「音って?」と聞けば良い物、「何っ?何?」と云われた侑徒は吹き出した。
『え?何?何で笑うの?』
「自分、大阪人か。」
『大阪?え?何で?』
大阪の人間は「何」で会話が出来ると、廉太郎が貶した事を思い出したのだ。「オールマイティ、何」と薄く開いた口から煙と一緒に出した。詳しく知りたいなら廉太郎に指南して貰えと侑徒は云う。
『何?もう何?邪険はいやぁなぁ。』
「せやから其の金属音何やて。」
『だから何?金属音って。』
先刻からずっと聞こえる音を侑徒は云った。
『嗚呼、コインじゃないかな。』
受話器の近くでしたのか、爪から離れる音も聞こえた。
「コインて?」
『美奈子がね、亜米利加に行って、そうそう。そうだ。』
美奈子と亜米利加とセント硬貨の関連性を見出せぬ内に隆臣の話は、指から離れた硬貨の様に逸れる。
『試験終わった後でも良いけどさ、其の前に一度、会えないかな。』
「無理やな。」
冷たく返した。
『美奈子が御土産って。』
「へぇ…」
受話器から漏れ聞こえた「へぇ」は隆臣の身体を知れず熱くさせ、掌が汗ばんだ。
「待たすん悪いしな、時間、考えるわ。」
『美奈子の誕生日もあるんだよ。』
「へぇ。」
侑徒が甘美な吐息に似た「へぇ」と云う度、身体は熱さを増す。此方迄「へぇ…」と熱篭る吐息を吐きたい。
「何時?」
『七月七日。』
「へぇ…っ」
何時に無く力強い同調する「へぇ」であった。
『そういや侑徒の誕生日って?』
「七月七日。」
『へぇ…………っ』
此れは力強く「へぇっ」と云わざるを得ない。
然しはたと隆臣は考えた。
妻と愛人の誕生日はがっちり一緒とは此れ如何に。こう云う場合の男は如何するのか、微熱を感じて居た隆臣の腰はさっと冷えた。爪先も痺れ始めた。
『美奈子は、渡さないから。』
「はい…?」
『同じ誕生日とか。織姫と彦星じゃん。うちの織姫さんはあげませんっ』
「貰っても熨斗を付けて御返し致します、吉川さん。」
『侑徒が織姫なら如何ぞ美奈子を。』
「結局遣るんちゃうか…」
そんなに邪魔なら廉太郎にでも遣れ。云うと、あんなサディスト麿眼鏡に遣る等そんなの幾ら鳥の巣美奈子だろうが可哀相、其の鳥の巣がぐちゃぐちゃに為る最悪な人生と歎いた。
友人だけなら未だしも恋人迄貶す隆臣と結婚するのが一番の最悪とは考え付かない様である。
『侑徒なら良いよ?』
「要らんわいな…」
東京女と京男等、気味悪い。生まれ付きの活発と生まれ付きの根暗、奥はんに生気吸い取られて旦那はん去なはるんと違う?と噂されるに違いない。
『其れで俺、転がり込む。』
「帰れ。」
隆臣の思考は、支離滅裂である。
侑徒は鼻から息を吐き、床を見て居た。二階から木の収縮する音、夜な為矢鱈澄んで居る。叔父にしては少し軽い音だった。
「侑ちゃん、未だ起きてたんか?」
電話から聞こえた女の声に隆臣は耳を立てた。耳の奥に力が入り、片方の耳を塞いだ。叔母だと云うのは判るが、実は叔母、かなり声が若い。馴染みの無い人間だと「奥はん居てますか」と叔母は云われる。其れ程掠れも無く美奈子と大して変わりない。
一瞬、女の影を感じた。
床を向き、考えて居た侑徒は、果たしてそうか、侑徒は聞いた。
「叔母さん。」
「何やぁ?」
「俺の誕生日て、何時?」
叔母は口を開き、呆れた、カレンダーを一枚捲り、七夕さん、指した。嗚呼矢張り間違いでは無いんだと、隆臣に「七月七日」と改めて云った。
訳判らぬのは隆臣である。
『何…?』
「いや、俺な、自分の誕生日、よぅ覚えて無いんや。海の日か七夕、どっちかやなあて。」
『しっかりしなよ。』
「あはは。」
侑徒は笑い、両親から祝って貰った事等記憶に無い為、合って居るのか不安だった。侑徒の誕生日前後の父親は成績の事で気が立って居る。叔父はきちんと覚えて居るのだが(勿論叔母も)、七月は多忙な為、七日に祝って遣る事は出来無い。今年はきちんと七月七日にして遣ろうと叔父は張り切って居る。
なので侑徒、七月に自身の誕生日があり尚且何かの日なのは知って居るが、七日なのか二十日なのか把握して居ない。
水を飲んだ叔母は、少し喉が詰まった。
自分の誕生日が判らないとは、全く不敏な子である。
「侑ちゃん。」
「嗚呼、御免為さい。ほんなら隆臣、切るわな。」
『結局何時よ。後?前?』
「明日、明日な。」
『何時もの店で良い?』
「うん、ほんならな。」
切ったが、叔母は未だ後ろに居た。何かあるのか、振り向いた。叔母は無表情で侑徒を見詰め、「七夕さんや、よぅ覚えときぃ」と二階に上がった。
「へぇ。」
廊下は生暖かく、ぺったりと足の裏に張り付いた。蛙が歩く様な、そんな音だった。




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