Zellen
其の日は朝から、空は重い雲を蓄え、灰色の空だった。雨が降る前に買物を済ませ様と、空行きを見乍ら食品を選ぶ。店を出た時、ぽつりぽつりと小さく雫を落とし、瞬く間に濡られた。此処迄濡れたら急いで帰るのも億劫になり、私は慎重に暗い足元を見、袋を矢張り慎重に腕に抱える。紙袋は変形し、了いには下が破け、歩く度に買った物が落ちてゆく。
雨に濡られる時間が長くなる度、私の気持ちは此の空と同じ模様になる。拾うのも面倒で、腕を緩め道端に袋ごと捨てた。此れで幾分か歩くのが楽になり、足元だけに集中した。
袋を、捨てたのがいけなかったのだろうか。其れの恨みの如く、私は後ろから走って来た女にぶつかられ、嫌な音と共に地面に座り込んだ。女は私に全く気付かず、ヒールの音だけを残していった。
丁度転んだ場所は屋根があり、泥に塗れる事は無かった。其れは救いだったが、やられた。
見事に、杖が折れている。
在の嫌な音は、此れだった。
立つ事も帰る事も出来無くなった私は、大きな屋根の下で座った。其処には短い階段があり、何かの建物だった。裏口の様な。
革靴の音が近付き、通り過ぎると何故か後退し、身体を向けた。
「タマコ?」
ハンスだった。独逸語で何か聞いてくるが私に答える事は出来ず、折れた杖を見ると、自分の差していた傘を捨て、私を抱き上げた。歩き乍ら何か話しているが雨音で消され、又私も理解出来ない。“トキイツ”と云う言葉しか。
ハンスの向かった先に私は驚いた。てっきり家に帰してくれるものと思っていた。
独逸軍の診療所。私の夫が居る場所。診療所と云う割にはとても大きく、病院に見える。診療所と病院の違い位判る。此れでも医者の娘だ。私の家は、診療所だ。
ハンスは中に入ると指示を出し、私を一室に入れた。固いベッドに置かれ、何処でも此の類のベッドは同じなのだなと、其の固さを不快に思った。寝室にあるベッドの柔らかさを改めて知り、夫の優しさを知る。
「トイキツは?」
「軍曹宅に往診中です。」
「軍曹か…何時行った。」
「30分程前です。」
「ならソウイツで良い。病院から呼べ。」
頭の上で交わされる、まるで暗号の様な会話。私には全く理解出来ず、壁を知る。
五分程して宗一が血相を変えて現れた。折れた杖を見ると固定されている場所から外し、長さを図った。折れた先は何処かに行ってしまい、又私も杖の長さ等正確に覚えていない。
「少し、長く作ろか。」
バランスの悪さを気にしていた宗一はそう云い、細長い木材に鑢を掛け始め、長さを調節した。
「時一は?」
「軍曹の所だ。」
「嗚呼、あの足の折れた?」
宗一は少し笑い、何度も腕から地面の距離を図り調節していた。
「おお、我乍ら綺麗。」
出来上がった新しい杖に金具を装着し、先にはゴムを付けた。少し横に屈折するが、前よりかなりバランスが取れている。中々に良いぞと、私は数歩歩き、宗一に笑った。
「有難う。」
「気にしぃな。何ぼでも作ったるわ。」
云って紫煙をあげた時、横の診察室が一気に騒がしくなった。聞こえる声に、夫の声も入っている。女達の高い声に混ざり、少しばかり低い、といっても女達と大して変わりは無い夫の声を私は聞いた。一際低いのは、ハンスの声だった。
宗一は其方に顔を向け、此処と隣が通じるドアーを開け、顔だけ覗かせた。
「やっと帰って来たんか。」
「うわあ!何で居るの!」
宗一の顔が現れると同時に、女達の声は一層高くなり、日本人である彼等は、此処の女達に豪く興味関心を引く対象物となっていた。
「嗚呼、寄るな!俺は女が駄目なんだ!」
ハンスは笑い、女達も笑った。慌ててドアーを閉めると、入って来られない様に厳重に鍵を掛けた。其の姿が面白くて、私は小さく笑った。
「嗚呼、もうあかん。おぞましい娼婦共や…悪寒走る…」
娼婦、其の言葉に私は眉を上げた。
其の娼婦が、一体夫に何用か。女達が居なくなってから彼に説明しようと、しかし女達は一向に変える気配が無く、理解出来ない独逸語を聞いていた。夫は余り話さず、あの御喋り好きの夫が珍しいなと思った。私と夫の会話は、殆ど夫が話している。時折私が話し、夫は其れに丁寧に答えてくれる。
女達は笑い乍ら何か話し、ハンスは声を出して笑っている。夫の声は聞こえず、多分顔だけ笑っているのだと思う。其の会話を聞き乍ら、宗一は笑いを堪えている。理解出来ないのは、私だけなのだ。
「何を話しているの?」
「いや、此れは…あかんやろ…珠子はんが聞いたら卒倒するわ。」
一人だけ阻害された気分になり、宗一は等々声を出して笑った。
「何の話を昼間からしてんのや。」
そう宗一が云った事で、話の内容が大体掴めた。私が余り好きではない類の話だろう。
「だってこんなに顔が可愛いのよ?同じ物が付いてるって云う訳?貴方達。」
「さっきの先生といい、何なの日本人って。見たあの鼻。本当滑らかに高いのよ。あれが日本人の特徴ね。きっとあそこも細長いわよ。」
「鼻のでかい奴はでかいって云うけど、あれ嘘よね。だってハンス、そうでもないんだもん!」
一気に笑い声が響き、ハンスが何やら喚いている。宗一は一人で笑い、可笑しな事に、夫の笑い声は一切聞こえなかった。周りの声が大きくて聞こえない、等ではなく、本当に笑っていないのだ。其れに私は違和感を覚え、何故彼が笑っていないのか宗一に聞いたが、そんなのは知らないと即答された。
十分程だろうか、漸く夫の声が聞こえた。
「はい、診察は終わり。今日も御勤め頑張って。美しい猫さん達。」
宗一は私を見て、女達が帰る事を教えてくれた。しかし、女達の声は一向に消えない。
「坊やの見せてよ。」
「坊やって、あのねぇ。俺は君より年は上。さあ、帰った帰った。雌猫の発情した匂いを撒き散らさないで。軍が混乱する。」
「皆元気になるわよ。病気何て吹き飛ぶわよぉ。」
「はいはい、又今度ね。auf Wiedersehen!」
無理矢理診察室から出したのか、ドアーの勢い良く閉まる音が響いた。宗一は笑い乍らドアーを叩いた。
「終わったかな?坊や。」
「自分だけ逃げてずるいぞ!」
「しゃーないやろう。うちは女が嫌い何や。特に娼婦はな。」
「もう勘弁してくれ…」
椅子が鳴り、ノブが回る。ガチャガチャと鳴り、開けてくれと、夫の声がドアーを超えて聞こえた。
「開ける前に一つ伝える事がある。」
「Das was?」
「珠子はん、居てん。」
派手な音が隣から聞こえ、ハンスの声が響いた。椅子から転げ落ちたのだと安易に想像出来た。
「何だって!?」
「御前の細君が居る。そう云ったんだ。」
「ハンス!何で早く云わないんだよ!嗚呼、だから宗一が居るのか。納得したよ。」
「伝え様としたさ。けど聞かなかったんだろう?」
「何時だよ!」
「帰って来た時だよ。話があるんだが、と俺は云っただろう?」
静かな空気が流れ、私は小さく欠伸をした。
「聞かなかったのは御前、俺は悪くない。そうだろう?ソウイツ。」
「嗚呼、ハンスは悪くない。時一が悪い。」
「一寸!珠子さん!?如何したんですか!?怪我したんですか!?宗一!開けてよ!」
其の声に宗一は片眉上げ、私を見ると、静かにドアーを開いた。洋服は殆ど乾いていたが、未だ髪が湿っている。自慢の人形ヘアーは少し崩れていた。其の崩れた身嗜みが今更恥ずかしくなり、私は毛布を被った。此の勢いなら、化粧も落ちているだろう。今思えば、私は其れを晒していたのだ。菅原珠子、一生の不覚。自尊心が深く傷付いた。其の姿を見た夫は私から毛布を聞き剥がそうとしたが、私は抵抗した。
「見ないで!こんな姿見せられないわ!」
「え!?一体何が起きたの?は!まさか…」
夫は私から離れると、呆然と私を見ていた。隙間から私は覗いたのだ。折れている杖を見、ハンスを睨んだ。
「見損なったぞ、ハンス。」
「あ?」
「俺だって未だなのに、珠子さんを襲うとは!」
「一寸待て、何でそうなる。俺がタマコを襲った?言い掛かりも大概にしろよ。俺は彼女が座り込んでいたから運んだだけ。ソウイツ、helfen Sie mir。」
其の単語。其処で私は初めて其の単語の意味を知った。助けてくれ。嗚呼、もう本当にhelfen Sie mirだ。
私の口から真相を知った夫は、溜息を殺すと、大好きな笑顔で、心配させないで、と額にキスを落とした。冷たい額は、夫の唇の熱さを充分私に教えてくれた。
〔
*prev|4/7|
next#〕
T-ss