切り取られた風景(後)
二人の看護婦は着替え、叔父は一日の疲労を侑徒のマッサージで癒して居る時、電話が為った。触れる叔父の肩には疲労が滲み、勘弁してや、と首を鳴らした。看護婦達は出れないだろうと、侑徒が出た。
「橘小児科です、如何されました?」
透き通る侑徒の声に脱いで居た白衣を着、叔父は身構えた。高熱か、腹痛か、下痢か、夜泣きか、ええい何でも来い。私服に着替え終わった看護婦もうんざりした。
『あの…』
震えた若い声であった。
声を聞いた侑徒はメモ用紙に“二十代前半の母親”と書き、叔父に見せた。赤ん坊か、難儀な、と年配の看護婦に残る様云い、若い方は帰らせた。
「はい、如何されました?」
『あの…』
原口です。
名乗られ、メモ用紙に“原口”と書いた。看護婦は其れを見るとハ行のカルテを調べ、原口たる患者を探した。二人居たが、何方も赤ん坊では無い。一方は中学生で、一方は七歳。診療時間が終わる頃に電話を掛ける程の年齢では無かった。一晩位、平気である。
新患かと叔父は額を触り、次のメモを待った。
「はい、原口さん。此方は初めてですか?」
『美奈子です。原口、美奈子…』
メモ用紙にペン先を付けて居た侑徒は、ペンを置いた。
「一寸待ってて貰える?」
受話器を横に置いた侑徒は患者じゃないから帰って良いと、看護婦に伝えた。人騒がせな、と看護婦は蟀谷動かし、ぶつくさ文句垂れ、コートを着た。
「叔父さん、御免為さい。戻ってええです。」
叔父も未だ文句垂れ、診察室の電気を消した。待合室の一つだけ付いた仄暗さの中、小さな椅子に座った。
「美奈子はん?もう吃驚した。」
『御免、番号、知らないから…』
橘小児科なら電話帳に載って居る。其処にも勿論、夜間番号として自宅の番号は載って居るが、気が引けた。此方に掛けて出なかったら諦め様、と美奈子は賭けた。
「ほんで、何?」
『今、出られる…?』
自宅から掛けて居るのかと思ったが、診療所の近くにある公衆電話から美奈子は掛けて居た。美奈子は其処で電話帳開き、交換手に番号を伝えた。
寒い中来たのか、其れは悪いと、近くにある喫茶店を指定した。
「叔父さん、一寸出掛けて来ます。」
一旦家に戻り、コートとマフラーを持った。
「八時やで?何処行くんや。」
「一寸。直ぐ戻ります。」
黒いコートに白の毛糸で出来たマフラーをぐるぐる巻きにした。首だけ太く、鞭打ち症の患者に叔父は見えた。
「寒いしな、早ぅ帰るんやで。」
「はい。」
外は猛烈な寒さであった。道隅には雪が薄く積もり、足から冷えた。二分程歩いた場所に其の喫茶店はある。美奈子も丁度来たのか、入口でばったり会った。
コートが黒けりゃ、ズボンも黒かった。思うに侑徒は、黒と白以外着ない。流石に、真夏の隆臣みたくアロハシャツを着ろとも云わないが(そんな侑徒想像もしたく無いが)、廉太郎みたく四季の色を着れば良い。真夏でも侑徒は、白シャツに黒ズボンの出で立ちであった。本人は無頓着な為、困りはしない。
ぐるぐる巻きにされたマフラーから顎隠しちょこんと出る顔。
女の子みたいであった。
美奈子は寒いのに、熱さを知った。
店内に入り、マフラーだけ侑徒は外した。直ぐに済む用事だろうと。美奈子は一人恋熱に侵され、「店内はやっぱり暑いね」等とコートを脱いだ。
カシミアのセーターからはっきりと胸の大きさを見せた。
「あんら侑ちゃん。」
注文を取りに来た給仕は下品な笑みを蓄えた。
「御嬢はんと二人ぃ。デートかいな。嫌ぁなぁ。」
「叔父さんにはゆわんで、頼むしな…」
「ええよぅ、内緒なぁ。侑ちゃんは珈琲な。其方はんは。」
「同じで。」
「ショートケーキ、好きなんや。頼むわ。」
「侑徒、良いよ。珈琲だけで。」
「あんら、あんら。」
給仕はちゃっかり伝票に珈琲とショートケーキを、二つづつ、書いた。侑徒は食べると、一言も云って居ないのに。
注文が来る迄の間、二人は話さ無かった。侑徒から話す訳は無く、大人しい美奈子に少し気味悪さを知る。テーブルに珈琲とケーキ、二つづつ、並び、「俺要らんしな」と返そうとしたが、給仕は、呼ばれても居ないのに「あぁい」と逃げた。
「俺、ケーキよぅ食べへんのに…」
「大丈夫、二つ位余裕。」
「ほんなら頼むな…?」
「うん。」
此の返事の時既に、美奈子の分のケーキは半分消えて居た。
一口飲んだ侑徒は「ほんで?」と聞いた。
「何?」
「うん…」
中々云い出さず、かと云って、半分からケーキは減らない。隆臣の事か云い難い事か、侑徒は鼻を掻いた。
「………荷造り、進んではる…?」
当たり障りの無い事を聞いた。
「うん。後二週間だし、大半は送り終わった。」
「手ぇ要る時ゆうて。手伝うわ。」
「えー?侑徒見るからにひ弱そうだし、役立つの?」
「あ、ゆうたな?も、絶対手伝うたらへん。」
「嘘嘘。でも大丈夫、有難う。」
美奈子は笑い、珈琲を飲んだ。クリームの油分が熱い珈琲ではすんなり流され、今ならすんなり云えるかも知れない、美奈子はテーブルを見た。
「あたしね。」
「うん。」
「驚かないでね?後、だから如何したいって、訳でも無いから。」
「うん。」
前置きの長さに侑徒は笑い、カップを持った。白いカップが丁度口元に来た時、口に含もうとした珈琲がカップを伝い、垂れた。
「何…?」
「二回も、云わない…」
垂れた滴に気付かず、ソーサーに置いた。茶色い跡が丸く出来、改めてカップを持った侑徒は気付き、紙ナプキンで拭いた。
「嗚呼、ええとな…」
「如何こうしたいって訳じゃないの。後二週間で東京帰るし、だから…」
侑徒が自分からそう云われても困るだけなのは充分理解して居る、好きに為って呉れとも望まない。唯、此の侭気持を隠し東京に帰ると、本当に侑徒を忘れられ無く為ると、奇麗に振って欲しかった。
「嗚呼、うん。」
「話って、其れだけ。すっきりした。さあ、振って。こてんぱんに振ってっ」
「ううん…」
美奈子を見た侑徒は少し驚いた。在の重たい睫毛が無いのだ。粉を叩いただけの顔、見据える目に言葉が消えた。
渡したバレッタの硝子玉、在れと、“織姫と彦星”隆臣の言葉を思い出した。
在の時既に隆臣は美奈子の気持に気付いて居た。だから態々、疎遠に為って居た師匠に手紙を出した。俺には三味線しか無いと。
「隆臣と別れたんは、若しかして、俺の所為…?」
「…ううん。違うよ。」
口ではそう云うが、目は真逆の事を伝えた。
「そっか…」
侑徒は項垂れ、カップを遠ざけた。
「違う、本当に違う。侑徒は関係無いよ。」
「嘘ばっかし。俺、最低や…」
「侑徒、侑徒。違う…」
「御免…」
卒業公演は絶対行くからと、伝票を持ち、店から出た。直ぐに追い掛けたいのに美奈子は動けず、真っさらな目元を片手で隠した。下げに来た給仕は、唇を強く噛み締める美奈子の姿に何もさず引き下がった。
「違う、違うんだよ、侑徒…」
手の下から涙が流れた。
気持を伝え、吹っ切りたかっただけ。其れで侑徒を傷付ける等、考えもしなかった。侑徒の頭の良さは知って居た筈なのに、伝えた事で自分達が別れた理由を知る事に為ると、判って居たのに。
傷付けたかった訳じゃない。自分の事しか考えなかった自身に吐き気がした。
「あたしこそ、最低じゃん…」
片手では塞ぎ切れず、両手で隠した。此れ以上此処に居たら迷惑に為ると、ハンカチでざっと顔を拭いた美奈子は、椅子に置き忘れられた白いマフラーに又涙が溢れた。
天の川、或いは織姫の折った羽衣に見えた。
ずっと雨の織姫と彦星。
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